黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉙

【二十九章】


 白いシーツに広がる黒髪を見て、ほんの少しだけ不安になったのは場地だけの秘密だ。 
 もう逃げないと千冬に約束をさせて、彼を病室に連れ戻すことに成功したのだった。尤も「場地さんの手を煩わせるわけにはいきませんって!」なんて抵抗はされたのだけれど。それについては一旦無視して軽々と千冬を抱え上げた場地は、そのままの足で病院へ舞い戻ったのだった。
 目覚めたばかりの身体にはこの一連の逃避劇が相当負担だったようで、ベッドに横たわった瞬間に目を伏せてしまったものだから、場地の心臓はいくつあっても足りないようなものだったけれど。
伏せられた目の周りが赤くなっていることも、不安を誘ったのだろう。
 それでも、少し休んだら回復したらしい。心配しつつも一度東卍本部に戻らなければいけなかった場地が大急ぎで戻ってきた頃には目を開けて、窓の外を眺めていたのだった。
 病室には丁度柔らかい光が差していて、きっと千冬はそのぬくもりを感じていたのだろう。扉が開いた音に反応した彼は、場地を見て嬉しそうな表情を向けた。
「場地さん」
「千冬。大丈夫か」
「はい。もう平気です」
 寝ちまってすいません、言いながら頭を下げるものだから、場地は短く溜息を吐いた。謝るべきはそこではないのだけれど、そう言ったところで千冬はきっと不思議そうな顔をするだけに違いないから。
 言葉を交わしながら、場地はゆっくりとベッドサイドへ近寄っていく。そのまますっかり定位置になっていたベッド脇の椅子に腰かけた。
「話。聞かせてくんねえ?」
そこで、もう一度千冬について教えて欲しいと言ったのだ。
「長いっスよ?」
「うん」
 千冬の手を握って、場地は頷く。その体温を感じて、とてつもなく愛おしいとそう思った。
 長い話になると不安そうに尋ねてきたことに対して、いくらでも聞きたいのだと、そう伝える。
 繋がれた手をちらっと見た千冬が少しだけ頬を染めたのに気づかないふりをしてあげる。そうしたら次の瞬間には落ち着いた表情になって。
 そうして、彼の長い長い孤独な闘いが語られ始めたのだった。
 望まない形で場地と別れてから千冬が辿った日々。
 それは場地が想像していた以上に険しい道のりだった。
 施設での暮らしに、地下社会で強かに生き残った事。簡単に口にしているその話が、口調の通りに軽いものだとはどうしても思えなかった。
 何度も口を挟みそうになってしまうのを耐えて、ただただ聞くことに徹した。話を止めてはいけないと、そう思ったのだ。
「一虎君が霧の情報を盗んですぐに、ボスは気づきました。その時オレは、チャンスだと思った。いつか領主とボスのこの計画を暴露してぶち壊してやるって思ってたけど、どうやればいいのか、ずっと悩んでたから」
 情報屋として霧の動きを流したり、裏でできることはとにかくやったけれど、邪魔をするにも時間を稼ぐにも限度はあった。だから何か一つ、東卍が動く理由ができればいいと、そう考えていたのだという。そこに現れた、東卍の幹部に情報を持ち帰らせることができるかもしれないという可能性。情報を取りやすいところに置いたのは、当然黒猫だった。
 そして、一虎は黒猫の想う通りに情報を盗み出すことに成功したのだ。だからこそ一虎には何があっても生きていてもらわなければならないと、そう思った。
 けれど、現実はそう簡単にはいかなかったのだ。
「結局大怪我させて、大変なことになっちまって、一虎君には悪いことしちまいましたね」
 そう自嘲気味に零した言葉に何とか首を横に振った場地だったけれど、千冬は悪くないと言い切れないのもまた事実だ。一虎を利用しようとしたことは、疑いようのない真実だったから。
 少しだけ、静寂が流れる。
「オレ、死ぬと思ってたんスよね」
 これまでのことを順に言葉で紡いでいった千冬は、一瞬間を置いた後にそう言ったのだった。
 重たい過去を口にした千冬の横顔があまりにも白くて、心臓が嫌な予感にドキリと跳ねる。
 あの日、血に塗れた彼を見てしまったから薄々そうなのではないかと思っていたけれど、実際に本人から聞かされるのではまた言葉の重みが変わってくる。
「あいつら……西領の野望を暴いて、壊滅させるのがオレのやりたかったことでした。そうすれば、場地さんの夢を守ることができるって思ってた」
 場地に聞かせるというよりは、独り言を呟いているようだった。
「でもボスは強いから……。それなら相打ちしかないって思ったんス」
 従うふりをしてきたからこそ、決して簡単にどうにかなる相手ではないことを理解していたのだという。
「本当は場地さんと別れたくなかった。会いに行きたかった。でもオレと場地さんじゃ、生きてる世界が違うから」
 千冬はどこか寂し気に目を伏せながらそう零した。
 場地だって、決して平凡な日々を送って来たとは言い難い。苦労の末に辿り着いた今日がある。それでも、千冬が辿ってきた人生を想うと何も言えなくなってしまった。
 こうして話を聞いたとしてもまだまだ知らない千冬の人生がきっとあるのだ。
 それでも、壮絶な人生を送ってきたはずの千冬が選んでくれたことには、幼馴染達を守りたいという場地のその想いが繋がっていると知って。湧き上がった感情にどんな名前を付けたらよいのだろうか。
「……これが、オレのしてきたことです」
 そう言って彼は長い話を終えたのだった。
 話を聞く間、場地は千冬の手を握ったままだった。
 もう二度と二人が離れ離れになることはないだろう。繋いだこの手が解かれることは決してないと言い切れる。それでも、離れていた時間の長さを思えば不安になるものだ。だからこそ今感じる温かさで、確かに千冬がいるのだと確かめる。
「千冬、好きだ」
 ほとんど無意識に口から零れ落ちた告白に、正直場地自身が一番驚いた。
 なぜ今、心の内を彼に伝えようと思ったのかは自分自身でも良く分からない。けれど、どうしても伝えておきたいと思ったのだ。
「ばじ、さん?」
 案の定、千冬は驚いている。正確には驚いているというよりも困惑の感情に近いかもしれないけれど。
「……なんも知らなくて、ひでぇこと沢山言っちまって、今更って思うかもしんねェけど」
 場地らしくない、遠回りな話し方をしてしまう。
 それでも伝えたいことは、はっきり言うのだった。
「オレ、やっぱ千冬のこと好きなんだワ」
 随分と都合の良いことを言っているなんて思われてしまうだろうか? それでも構わなかった。どうしても、今伝えておきたいとそう思ったのだ。今の場地は、千冬の行動の根底に自分の存在があった事を知っている。
 それが嬉しいと思う反面、もっと自分自身も大切にしてほしいと思うことだって、この先沢山あるだろう。だからこそ、まずは千冬のことを他でもない場地が大切にしたいと、そう思ったのだ。
 これは、そのための告白。いろんな感情が溢れ出して、その中で残ったのが、彼への好意だったのだ。
そして何よりも、千冬が与えてくれていた場地への想いに応えてあげたいと、そう思った。
「……場地さんは、酷くないっスよ」
「イヤ、仲間の事信用できなかった。それどころか疑っちまったな」
 仲間想いの場地だからこそ、そこにどんな理由があったとしても、疑いの目を向けた挙句突き放してしまった事を気にしているのだろう。
「オレ、悪い事沢山しましたよ」
「そのおかげでオレ達は霧に勝てたな」
「また簡単に信用して、オレが裏切ったらどうするんスか」
「ハ、自分から言うかよフツー」
「……確かにそっスね」
 場地は笑っていた。だから釣られて思わず千冬も笑顔になる。
「……オマエになんかあったらって思ったらさ、怖かったんだよな。このままなんも知らねェでまた千冬の事傷つけたらどうしようって思った」
「そんなことねえっス」
「千冬の方がオレの事許せねェかもしんねェけどさぁ」
 きっと、先程の話を聞く限りそんなことはないのだろうけれど、それでも少しくらいは不安になってしまうというもの。
 案の定千冬は、場地が言ったことへ大きく首を振った。
「そ、そんなことはないっスよ! オレが場地さんのこと許せねぇなんて、あり得ねえ!」
 一切の曇りがない瞳が真っ直ぐと場地に向けられた。場地は、静かにそれを受け入れる。
「オレ、今度こそオマエと一緒に生きたいんだワ」
「場地さん……」
「なあ千冬、もう一度、オレの恋人になって」
 場地には、千冬が息を呑んだのが分かった。それを感じて、やはりだめだったかと落胆しそうになる。しかしそんなことを思ったのは一瞬で、次の瞬間目に映った姿に安堵を覚えた。
 頬を染めた千冬の表情は一生忘れることがないだろう。
「……別れてないっスから」
 小さな声で、千冬はそう答えた。 
「千冬」
「オレも、場地さんとずっと一緒にいたい」
 とうとう彼の澄んだ瞳から水滴が零れ落ちる。その透明な水分があまりにも美しくて、思わず目が眩みそうになった。
「千冬ぅ、こっち向いて」
「なんスか? ばじ、さ……」
 従順に向いてくれた彼の唇へ、場地はそっと口付ける。
 すると千冬もうっとりと瞳を閉じてそれに応えようとしてくれるから、場地は彼の後頭部を引き寄せてもう一度と唇を重ねるのだった。

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