黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉘

【二十八章】


 気づいた時には一瞬意識が飛んでしまっていたらしい。
 人の気配をすぐ近くに感じて、慌てて目を覚ました。正しくは、本能がギリギリのところで危険を感じ取ったのだろう。無理矢理覚醒した身体が悲鳴を上げているのを感じた。気配には敏感だったはずなのに、まさかここまで近づかれないと気づけなかったなんて。
 千冬は、ぼやけた視線の先を辿ろうと目を細めた。意識が落ちていて油断していたとはいえ、一体誰だと気を張る。場所は王都の中でも中心部。暴漢が多発する地域ではないけれど、何があるかはわからないものだ。反撃くらいはできるようにしておかないと、今の千冬に勝ち目があるとは思えない。
 さてその人物はあと二歩で千冬の身に触れられるところまで近づいて立ち止まったのだった。
 視線が交差する。
「あれ、君は……」
「……おまえは」
 声をかけてきたその人物に心当たりがあった千冬は、視線を合わせてしまった事を少しだけ後悔する。少しだけれど、会った事のある人物だった。まずは襲ってくるような人物でないことに安堵して、それから居た堪れない気持ちになった。今更無駄と知りつつ目を逸らしたけれど、残念ながらそれで誤魔化せるような相手ではなくて。
「なんで黒猫がこんなところに⁉」
「声がでけぇ……」
 もしこれが漫画であったなら。まるでびっくり! という効果音が付くような反応を返されて、千冬が頭を抱えたのは致し方ないだろう。ただでさえ眩暈がしていたところに良く通る声が響いてきたのだから、脳が揺れて仕方なかったのだ。
 とにかく、残念なことだけれど正体に気づかれてしまったので、逃げることは諦めることにした。尤も、動ける体力は戻りきっていなかったから、これで良かったのかもしれないと思い始めているのだけれど。
「いや、え、まさか病室抜け出したの⁉」
 結局こちらの事なんてお構いなしにもう一度驚きを口にした彼、武道に千冬は思わず溜息を吐く。彼の想像したことが何一つとして間違ってはいないのがまた困りどころだ。きっと、千冬が目覚めたことはまだ一虎と数人の看護師しか知らないことなのだろう。ここで千冬と武道が出会った事の方がよっぽど奇跡的な事だったに違いない。とはいえ、東卍関係者に見つかってしまった。もう少しは時間を稼げると思っていただけに、あまりの速さでそれが崩れ去った状況へ笑いも出てこないのだった。
 こうなったら連れ戻されるのを待とうと覚悟を決める。
 しかし、次の言葉で千冬の思考は固まった。
「えっと、マイキー君……場地君に知らせないと」
 正しい判断だけれど、今の千冬にとってはあまりにも嬉しくない。連れ戻されるのを覚悟したからといって、これで良かったのだと認めるにはまだ、心が定まりきっていないのだ。
 その前に病院連れてかないとだめか、なんて独り言を呟きながら自問自答している彼を遮って、千冬はひとつ頼みごとをした。
「いま……場地さん、って言ったか……やめてくれ、あの人を呼ぶな。オレは、あのひとにあえるようなやつじゃ、ない」
「はい⁉︎」
 武道のやろうとしていることは何も間違っていないけれど、千冬にとっては何があっても避けたいことだから仕方ない。彼と会わないためにこんな思いをしてまで出てきたというのに、ここで呼ばれたらひとたまりもないと。
 未だ焦点が定まりきっていない瞳を彼に向けて、はったりにもならない睨みを利かせた。そんな子どもらしい行動でも多少は効果があったらしく、武道は一瞬だけたじろいたようだった。元の目つきの悪さが上手く働いてくれたらしい。
「勝手に病室出たのは悪かったって思ってる、でも、あの人は呼ばないでくんねえかな」
 残念ながら、武道に見つかった時点でそんなことは無理な相談だと確定していたようなものだけれど。それでも彼だけは連れてこないで欲しい、会わせないで欲しいというのがせめてもの願いだ。当然我儘を言っている自覚はあった。
 しかし、その希望は次の瞬間、無駄になるのだった。
「武道! 手が空いてたら……」
 遠くから、武道を呼ぶ声が聞こえてきた。その声にはあまりにも聞き覚えがあって、これ以上の悪あがきは無駄と諦めるしかなかった。逃げようだなんて、無謀な事だったのだと。そう悟ってしまったら一気に肩から力が抜けた。彼に見つかってしまうことは、きっと誰でも予想ができることだったのだと、そうやって自分自身を納得させて、心を宥めようとする。それでもあの瞬間は、思わず飛び出さないとやっていられなかったのだけれど。
 声の主がまさかといったように呟いたのが、聞こえてきた。
「千冬……」
 間違いなく、名前を呼ばれた。
 もうわかっていることだけれど、千冬を呼んだのは、場地だ。
 まさか心の準備もできないうちに、こんなに早く彼の声を聞くことになるなんてと思ってしまう気持ちもまだ捨てきれない。
 けれど現実はそんな順序をあっという間に飛び越えてきて、千冬を振り回すのだ。
「場地君! これから探しに行こうと思ってたんです」
 下を向いているからもしかしたら違うかもしれないけれど、事情を知らない武道が場地に向かって勢いよく頭を下げた、そんな気配を感じ取った。
「……助かったぜ。コイツ探すの手伝って貰うつもりだった」
「何があったんですか?」
「それはオレがこれからコイツに聞くことなんだワ」
 頭上で繰り広げられる会話を聞く間、千冬はまるで死刑宣告でも受ける前のような気分にさせられていた。
 そう、これは緊張。心臓が激しく脈打っているのを感じる。
「っ」
 場地のアーモンド色の瞳がさっきからずっと千冬を見つめているのには、もうとっくに気づいていた。その視線を確かめるように、思わず顔を上げてしまう。そしてその先にある彼の瞳を思わず見てしまって、千冬は息を呑んだのだった。
「武道。そこ変われ」
「はい」
 返事に合わせて武道は千冬の傍を離れた。それを一瞥した場地は、入れ替わりで千冬の傍に寄るのだった。
 一歩二歩と彼が近寄って来るのに対して、千冬はあからさまな反応する。もう逃げられないと覚悟を決めたはずなのに、つい反射的に後退りしようとした。けれど、もう壁に背が付いてしまっていることに気づいて、それが叶わないことを悟る。だから思わず唇を噛んだのだ。
 なんだか一人で焦った挙句勝手にから回っている気分になってきて、それが少しだけ悔しかったから。
 場地はそのまま無表情で千冬の前に立っていた。
 武道が静かに後ろから見守っている中で、ただ何もしない時間が流れる。
 それからしばし千冬を見下ろしていた場地だったけれど、不意に千冬の目線に合わせるようしゃがみ込むのだった。
「……場地さん……」
 何か言わなくては、そう思ったけれど、言葉が続かない。
 場地はじっと、千冬を見つめている。
「……あの……? ばじさ、……⁉」
 いたたまれなくなって再び口を開いたその時だった。気づいた時には抱き起されるような格好になって、千冬は思わず狼狽えた。
 彼の声が、左耳を擽った。
「教えてくんねェか、オマエの事。……今日までどーやって生きてきたか」
 一人困惑する様子を知ってか知らずか、場地は静かにこう投げかけてきたのだった。
 あまりにも静かな問いかけ。
 まさかこんなことを尋ねられるとは夢にも思っていなかった千冬は、突然の問いに動揺を隠せない。
 それでも一つだけ。これだけは彼に伝えないといけないことがあったことを思い出す。
 言葉が、溢れ出た。
「ばじさん、だめです。場地さんなんかが興味を持つ人間じゃねえよ、オレは」
「そんなことねエ」
「だってオレは、アンタを裏切った」
「……裏切られたって勝手に思いこんだのは、オレのほうだ」
「違います、裏切ってたんスよ、ずっと。場地さんはなんも間違ってねえんだ。頼むから、オレに惑わされないでください」
「それは嘘だな」
「オレは霧の黒猫なんですよ⁉」
「アァ、そーだな。テメーは黒猫だ。……だからって、オマエが傷つけられていいわけねェだろ!」
 場地の叫び声を間近で受けて、思わず口が止まった。まだ言いたいことはあったはずなのに、何も出てこなくなる。
 その代わり、言われた言葉を必死で理解しようとした。
 大声に驚いて身体を強張らせたのが伝わったからだろうか。場地は、千冬の身を再度優しく抱きしめる。
 まるで、千冬を大切に扱ってくれているかのように、そっと。
 否、それは間違いだ。場地が千冬を大切に想ってくれていることには、もうとっくに気づいていた。千冬が場地を想い続けていたのと同じくらい、千冬は最初から、場地にとって大切な人物だったと。
「ンで、千冬だけが傷つかねェといけねーんだよ」
「っ」
「オレ、なんも知らなくて、知らないまま千冬の事嫌っちまった」
「……いいんです、それが事実なんスから。オレは最低な野郎っスよ」
「そんなわけねェ。……オレにはジジョーとかそんなのわかんねーけど、テメーが言ってることが違うってくらいはわかるぜ」
「場地さん……」
「本当の事、教えてくれよ」
 頼む、と言われたら、もうだめだった。
「ばじ、さん」
 掠れた声で、もう一度愛しい人の名を呼ぶ。掠れていたけれど、どこか湿った声。
 千冬がどんな思いで彼の名を呼んだのか、果たして本人に伝わったのだろうか。
「なあ、千冬。オレはオマエと生きたいって思ってた。オマエがいなくなっちまった後も、ずっとそう思ってたんだ」
 じわりと、瞳に何かが滲んだ気がした。
 それを自覚したら我慢ができなくなって、千冬の頬を幾筋も涙が伝っていく。
 気づいた時には強く、抱きしめられた気がした。
 千冬、と柔らかく名前を呼ばれたらもう耐えきれなくて、叫ぶように溢れた言葉こそ本心だった。
「おれ、おれずっと……! アンタのとなりにいたかった……ッ!」
「千冬……!」
 場地はまるで千冬を離したくないというばかりに、強く、強く掻き抱いた。
「場地さんの、一番近くにいてえよ……!」
 これが押し殺し続けてきた千冬の本音だ。

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