黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉗

【二十七章】


 今日もまた、いつものように病室を訪ねて、彼に早く目覚めて欲しいと願うだけの時間になるのだと思っていた。穏やかに目を伏せる白い顔(かんばせ)を見つめながら、その向こうに見えていたはずの碧い瞳に思いを馳せることになるのだと。
けれど、現実は時として大いに想像を超えてくるものだ。もし場地が言葉に詳しかったら、事実は小説より奇なりなんて言い回しが浮かんでいたかもしれないくらいに、今目の前にある現実が受け入れられない。
「千冬⁉」
 もぬけの殻になっている病室を見て、場地は叫び声を上げた。
 そう、いつものように彼の眠る部屋に立ち入っただけだったのだ。千冬は今夢の中にいるから返事がないことはわかっていた。それでも邪魔するぜ、と言ってしまうのはお約束。しかし今日は、そこに見えるはずの黒髪がどこにも見当たらなかった。掛布団も、その下に人はいないことが分かる薄さになっている。
 放心する場地へ、後ろから声を掛けてくる人物が一人。振り向かずとも声でわかる。自身の親友だった。
「あれ、場地どうした?」
「一、虎」
「お前、今来たの? あれ、千冬……」
「っ、ああ、入ったら誰も見当たらねェんだ」
「は? 千冬、いねえの⁉ うっわ! あいつ逃げたのかよ!」
「エ、オマエなんか知ってんのか」
「知ってるっつーか、悪い場地! さっきたまたまここに来たらアイツ、目ぇ覚ましてたんだ。だからとりあえず誰か呼ばねえとと思って出たら……」
 その時場地は、彼の後ろにもう一人立っていたことに気づいた。そう、一虎は看護師を呼びに行っていたのだ。その看護師も、空になった病室を見て顔を青くしている。
「さっきって、いつ」
「まだそんな時間経ってねえし、起きたばっか……近くにいると思うけど……。オイ、場地!」
 問いかけに対する返答を半分耳へ通すなり、場地は飛び出した。一虎にはきっと、顔面蒼白になった様を見られたことだろう。
 突飛な行動は致し方ないと思って欲しかった。だってこんなにも心が痛い。
 なぜ千冬はいなくなったのだろうか。もし彼自身の意志で出て行ったとして。東卍の手中にいると分かって、真実を語りたくないとでも思ったのだろうか。それとも罪に裁かれるのが怖くなったのだろうか。でも、今の場地は、彼がそんな人間なんかではないと信じている。今更そんな風に彼を知った気になるのは間違っているかもしれないし、本人からしたら、あれほど憎んでいたくせにと軽蔑されてしまいそうだけれど。確かにまだ、一度の裏切りを経たことから、この彼を信じたいと思っている感情さえ、自身の思い込みかもしれないと疑う心も消えてはいない。それを否定はできない。それでも一虎によって語られた、真一郎によって解き明かされた真実を知った今、千冬という人物は自身が起こした行動には責任を持つ人物だと、そう確信してきているのだ。
「千冬……!」
 病院は静かにとか、そんなことは気にしていられない。
 きっともう、彼は自分の顔なんて見たくないだろう。そのつもりの別れだったはずなのだから。場地だって、会わない方が良いと思う気持ちが一切ないとは言い切れない。
 それでも、身体は自然と動いてしまったのだ。
 千冬の過去に一体何があったのか、それはわからない。場地が知らない空白の時間に危険な組織へ入り込む必要があったことだけは確かだけれど、その真相を今埋めることはできない。けれど、敵のように振舞いながら一虎を救った彼には何か大きな覚悟があったと思えて仕方ない。内通者、東卍の敵、西領霧の幹部、それらのピースが噛み合うようで噛み合わない状態を起こしている。
 そのアンバランスさの奥に隠された、彼の柔らかい心に触れたかった。
(何がしたかったんだよ……?)
 場地には決してわからないけれど、そうしなければいけない何かがあったことには違いないのだ。
 だって、腕の中に抱きしめたあの日の千冬は儚く美しい顔で笑ったのだから。
 そうやっていろんなことを脳内で広げながら病院を飛び出したその時だった。
「場地! どうした!」
 万次郎だった。通りの反対側から、場地を呼ぶ声が聞こえてくる。焦る姿を見て、ただならぬ何かを感じたのだろう。すぐに駆け寄ってくる。
「マイキー……千冬がいなくなった」
 説明なんて後回しで、事実だけを伝える。
「……どういうことだ?」
「わかんねえ。一虎が、目覚ました千冬に会ったっつってた」
 相手に理解させる気のないまま、ただ目の前にある状況だけを口にした場地は、一度黙ってしまう。だって、場地でさえまだこの後どうしたら良いのかが分からないのだ。
 思わず、反射的に彼がいたはずの部屋から飛び出してしまった。どこに行ったかもわからない彼を探して、今度こそ腕の中に抱き留めないといけないと、そう思ったから。けれどそんなことできるかどうかなんてわからないし、彼がそれを望んでいるとも思えなくて。そう、途方に暮れてしまったのだった。
 そんな場地をいつだって導いてくれる人物こそ、大切な仲間達なのだけれど。
「千冬、目、覚めたんだな?」
「……ああ」
「で、いなくなったと」
「……オウ」
「攫われた可能性、あるか?」
「それはねぇ」
「でもいなかったんだな」
「……ああ」
「じゃあ、探そうぜ」
 短い言葉のやり取りを数回。一問一答にもならないそれをして、万次郎はにっこりと微笑んだ。
「マイキー……」
「場地」
 万次郎の大きな黒目が、場地を真っ直ぐ射抜く。
「千冬は、オレ達の仲間だ」
 力強く彼はそう言った。声が大きいわけでも、威圧的な声色だったわけでもない。それでも一字一句が、重たく響く。思わず反応に遅れた場地だったけれど、すぐにその言葉の意味が頭の中に入ってくる。
万次郎は、自身が信じる唯一無二のリーダーは、千冬を仲間と言ってくれたのだ。東卍の敵であったはずの彼を、仲間だから探そうと。
 思わず視界が潤みかけて、慌ててそれに耐える。まさか感情が乱されたからといってここで泣いたら後で絶対に彼は笑ってくるだろうから。
「マイキー……。ありがとうな」
「それは、千冬が見つかってからにしろ。……しばらく寝たきりだったんだ、きっと遠くには行ってねえ。手分けして探すぞ」
「ああ」
 一虎だって歩けるようになるまでかなりの時間がかかったのだ。千冬だって似たような感じに違いない。そんな身体でもあの病室に居たくなかった理由を想像しようとすると、また暗い気持ちになってしまいそうだけれど。
「もうすぐしたらケンチンとパーも来る。そしたらみんなで一気に探すぞ」
「……助かる」
 固いやり取りは、ここまで。
 見つかったらタイヤキ五十個な、と、彼が今気に入っている菓子を見返りにと出されて、場地は少し肩の力が抜けた気がした。



 乱れた呼吸が整わない。吸っても吐いても一向に落ち着かない。それなりに体力はある方だと思っていたから、こんなに息が上がったのは、初めてかもしれない。
 いや、つい最近にもこんな風に限界を感じたことはあった。それこそ場地と対峙した時の話で、動けるそのぎりぎりまで闘った記憶はあるのだけれど。
(だめだ、もう動けねえ……)
 結局病院を抜け出した千冬は、病院郊外へ出てすぐに体力の限界を迎えた。こんなにすぐ疲れ果てた経験をしたことはさすがにこれまでもなくて、自分自身が一番驚いているけれど。一歩一歩足を進めようとするだけで目の前が歪んでしまって、真っ暗になるような気分で堪らなくなったのだ。
 最初は気力でどうにかなると思っていた。けれどそんなの願望でしかなくて。結局耳鳴りがしてきて、その耳奥で血の流れる音が鳴り響く。思わず目を閉じた方が余計にそれを強く感じるようになるものだから、半眼で眉を顰めながらやり過ごすしかないのだった。そんなわけで、逃げようだなんてほうがよっぽど無理になってしまったのだった。
(大人しく寝てりゃよかった)
 飛び出したのには理由があるけれど、つい弱音が心を過る。
 後悔先に立たず、と言うがまさにそんな気分だ。眠っている間ろくな食事を取れずにいたのだから当然だろう。今はひたすらこの辛さに耐えるしかない。
 路地の壁に背を預けて、そのまま重力に従うように座り込んだ。ひたすら息を整える事だけに神経を尖らせる。
(目、覚ましてた)
 動くことを辞めると、少し思考が戻ってきたようだ。相変わらず息は上がったままだし苦しいままだけれど、考え事をする余裕くらいはできてきた。
 そこでやっと実感を持つことができた、一虎が意識を取り戻していたという事実。千冬が黒猫として初めて彼と対峙した時より痩せてしまっていたし髪が伸びていたようだけれど、大きな瞳とその下の黒子は本人に違いなかった。
(……生きてた)
 よかった、と心の底から思う。場地の大切な親友を傷つけてしまった事実。それが千冬にとってどれほど重いものだったかを実感しているのは千冬本人だけだけれど、もし本当に二度と目を開けないことがあったらと想像してしまうだけで不安だったのだから。
 それは彼にとって大切な人を千冬が傷つけてしまったという事実が、自身をも傷つけていたからに他ならない。
「よかった」
 思わず安心を口にすると、さらに実感が湧いてきてしまって駄目だった。ほんの少しだけ、目元が湿った気がして、思わず瞳をぎゅっと閉じるのだった。
 そのまま、しばらくゆっくり深く呼吸をする。先ほどよりは少しだけ呼吸がしやすくなった気がして、心が安らかになった気がしてくる。まだ全回復というわけではないけれど、もう少しだけ休めば移動ができるくらいには回復しそうな気持ちになってくる。
(あとちょっとだけ居てもいいよな)
 崩れるように壁へ寄りかかった姿勢が少し居心地悪い。このままの姿勢だと、かえって身体を痛めてしまうだろう。ただでさえ今は身体が弱っているところなのだから。動くのは億劫だったけれど、千冬は重たい身体を少し引き摺るようにして、休みやすい体勢を整えて、身体を落ち着かせることにするのだった。

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