黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉖

【二十六章】


「……ここは、一体」
 ぱちりと目が開いた。
 不意に、目が覚めた。自然と意識が戻ってきた感覚。夢を見ていた記憶はないけれど、千冬はすぐに自身がどうやら長く眠っていた事を理解できた。それが一体どれくらいの長さであったかはわからなかったけれど、きっと長い時間に違いないと、その確信だけがあった。
 まだ視界はぼんやりしていて、周りの様子を把握することは難しい。窓から差し込む光で、日中であることだけはなんとなく分かったけれどそれだけ。他はまだ良く分からない。
 そんな目覚めたばかりの頭を必死で働かせる。
 何故自分はこれほどの時間、眠っていたのだろう、と。
 ここまで一体何があったのかを、思い出そうと順に紐解いていくのだった。
(ここ、王都にある病院だ)
 まずは自分の置かれている状況を掴もうとする。
 長年の経験からすっかり癖になっているようなものだった。情報を集めることが何よりも大事。
ぼんやりしていても目を細めたらなんとなく近くにある物が見えてきて、まずはここがどこなのかを把握することができた。
 病院だ。それも、昔世話になったことのある場所。
 細かなところは変わってしまっていたし、どうやら今いるのは個室らしいと認識してしまえば、かつていたのは共同部屋だったわけだから、思い込みの可能性もあるけれど。それでも昔ほんの数日だけいたあの病院に随分と似ていると思った。
 病院なんてどこも同じようなものかもしれない。けれどあの日の記憶は大切なものの一つだから、今でも鮮明に覚えていることが多いのだ。
(どうして寝ていたんだっけ)
 次に出てきたのは、自分がなぜこうなったのかという疑問。
 なぜこんなに長く眠っていたのかと、それを思い出そうとした。まさか時間も気にせず眠っていたなんて、と、さすがに驚いてしまう。そんなのは幼い日、まだ母と共に暮らしていた、遠い記憶の中にしかない。
 そうして何が起こったか一つ一つ思い浮かべていたところで、千冬は不意にある事実へ行き当たって、思わず身を固くした。
(オレは、ボスをやるために刺して、それでやり返されて)
「っ!」
 次の瞬間には妙に現実感のなかったところから一気に意識が覚醒したのだ。それに合わせて、ベッドから飛び起きる。
 一体自分が何をしようとして、何があったのかその全てを思い出したのだ。
 ボスを討ち取ろうとしたけれど、やりきれず彼からの返り討ちにあったことまで全てを思い出した。
 それでも漸く、長い日々の決着を付けたのだと。
 まさか自分がこうして生きていると思わなかった。だって、ずっと相打ちを覚悟していたのだ。彼を殺せば自分も死ぬのだと。そう思っていたけれど、どうやら命はあったらしい。……もしこれが死後の世界というのであれば、それもそれで不思議な気持ちになるのだけれど、今は悪運が勝ったと思いたい。
「それで、ボスは、っ」
 ぐらっと目が回る。
 目覚めたばかりにも関わらず急に脳を動かしたことでまた視界がぼやけた。大方貧血か何かを起こしたのだろう。
 上体を起こしたまましばし目を瞑って、蹲るような姿勢になる。そうやって急激な気分の悪さに耐えるしかない。
 それでも考えることは止まらないのだから、これはやはり癖なのだろう。
 耳の奥で勢いよく血が流れる音が聞こえてくるのがまたさらに気分の悪さに拍車をかけているけれど、この程度なら気にしてなんていられない。
 心配するべきは、ボスがどうなったか、だ。
(多分、あいつ(ボス)は東卍がどうにかしてくれてる)
 生死は正直わからないけれど、あの傷で逃げられたとは考えにくかった。そう思えば少しは晴れた気分になった。
 千冬がこうして生きているのだから、彼も生き延びてしまった可能性が高いけれど、その身が東卍の元にあればせめてこれまでの日々は報われるだろう。
 そのまま思考は次々と切り替わっていった。
(オレは、どうしてこんなところにいるんだ? 拘束されてねえ……ってことは、真一郎君に、オレが情報屋ってバレてる可能性もある……?)
 妙に思考はよく働いた。
 いずれ知られる可能性があることは前から分かっていたことだけれど、この状況を考えるとそれが一番正解に近い気がしてくる。
(どうしたらいい? 逃げるか?)
 この状況で逃げようだなんて、そんなことを考えてはいけないと分かっていたけれど、千冬の本能的な何かがここにいることを否定する。今この時もあらゆる疑いをかけられているはずの自分が、まさか逃げるだなんてとんでもないことを考えていると理解はできているけれど、こうして千冬が鍵もかかっていない部屋にいるという事は、ここが東卍関係者の膝元であることくらい推測できてしまうのだ。
 つまり、場地が千冬の真実に気づいた可能性が高い。
 黒猫が、本当は東卍の協力者であったその真実に、辿り着いたのではないかと。
 その可能性が見えてしまうだけで、こんなにも落ち着かない気分になるのだ。
(場地さんに責任感じさせるわけにはいかねえ)
 優しい彼の事だから、きっと千冬の真実を知ってしまったら、千冬のことを許そうとするだろう。そして、疑ったことに責任を感じてしまうに違いない。
(でも、きっとそうじゃねえんだ)
千冬には、もうわかっている。本当は、それだけが理由でないこともよく理解していた。
(もし、もう一回否定されたら)
 彼に心労をかけたくないというのは、半分あっていて半分間違いだ。もし真実を知られていたとして。それでも彼を裏切っていたことに変わりはないから。もう一度騙していたのかと彼に言われたりしたらと思うだけで、途端に不安になってしまうのだ。そんなの耐えられなかった。
 結局、自分の身が可愛いだけなのだと、その結論に至ってしまう。
「……まあ、会えるわけ、ねえよな」
 つい自嘲気味に、独り言がこぼれ落ちた。
 そもそも今の千冬に場地と合わせる顔なんてはじめからあるわけがないのだと。 
 彼の親友が昏睡状態に陥った原因だって、自分自身だ。
 自ら導き出した答えに、落ち込んだ。
 その時だった。
「アレ? 目ェ覚めてんじゃん!」
「⁉」
 まず聞こえたのは、扉が開いた音だった。それに合わせて不意に声が聞こえてきたことに驚く。どうやら、誰かが千冬のいる個室を覗いたらしい。
 勢いよく扉の方へ目を向けると、そこには一人の男がいた。声の主は千冬の姿を認めると、嬉しそうに近寄ってくる。
「うわー! 見に来てよかったー!」
「あの、えっと」
「しんどいだろ、無理すんなって」
 未だ眩暈の収まっていなかった千冬が頭を抱えた様子を見て、男はそう言った。
「は……?」
 親し気に話しかけられて、困惑しないほうが難しい。だって、千冬には自信に会いに来る、思い当たる人物がいないのだから。
 漸く焦点が合ってきて、人物の顔を認識できた。その姿を確認して、なんとなく見覚えのあった千冬の背にひやりとしたものが走る。
 一人の人物が、千冬の中に浮かび上がった。
(羽宮、一虎……!)
 今の今まで考えていたその張本人。まさか目覚めているなんて、と内心思うと共に、やはりここは東卍の関連している病院なのだと、今度こそ確信した。
「黒猫」
「……」
「あ、それとも千冬って呼んだほうがいい?」
 相も変わらずフランクに話しかけられて、動揺する。いつもだったら驚きなんて感情後回しにできるはずなのに、とことん上手く行かない。だって、一虎のことは逃がしたとはいえ、一度は対峙した者同士のはずなのだから。そうなると相手のことが全く掴めなくて、警戒心たっぷりに聞き返すことしかできない。
「……なんスか」
「アレ、もしかしてオレの事覚えてねえの? 名乗ったほうがいい? オレ、羽宮一虎。オマエの組織でスパイしてたところで殺されかけたんだけど、助けて貰ったんだよなー」
 覚えているとは、答えられなかった。まさか、あんなことをされておいて恨み言の一つも出てこないとは。彼は一体何を考えているのだろう。
 じっと大きな瞳が千冬を見つめてきて、気まずさに目を逸らす。しかし彼は目が合わなかったことを気にすることなく、一方的な話を続ける。
「なんでここにいるんだって顔してんじゃん」
「……そりゃ、まあ」
「教えてやろっか。あのな、真一郎君がどーにか話付けてくれたから、お前は一旦こっち側の人間ってことになってるんだってさ。ま、オレもよく分かってねえけど。目が覚めたんならこれからきっといろいろ聞かれて、それで最終的に判断ってことだろうけどなー」
 言いながら一虎は近くにあった椅子に座る。
 聞かされた千冬の方は、やはりそうかと納得した。仮説を立てていなかったら理解できなかったかもしれないけれど、考えていたことに近いことが起きていたらしい。道理で何の監視もなければ、監禁されていることもない、普通の病棟に入れられているわけだと考える。
 一虎は相変わらず気にせず続けた。
「あ、番犬は先に目覚まして、西の事吐いて貰ったってさ」
「そう、スか」
「お前刺したんだろ? よくやったよな! ま、あいつが死んでたらやばかったって仲間たちは言ってたんだけど?」
「……そりゃ、殺(や)るつもりだったんで」
 正直なところ、息の根を止めるつもりでいたから、彼が生きている事実に少しだけ落胆した。けれど、これで良かったとも思う。彼が起こそうとしていたことを暴露することは、すなわち西領の野望を完全に白紙に戻すことに繋がるのだから。目的が達成されているなら、何の問題もない。
 そうやって一方的に聞かされた話に気が付いたらほっとした顔をしていたのだろう。千冬の顔を覗き見た一虎は一呼吸置くと、こう言ってきた。
「ま。いーや。……場地。死にそうな顔してたぞ」
 不意打ちで聞かされたのは、今一番気にしていて、気にしたくなかった人物の話。おかげで反応にその心が現れてしまう。
「え、と」
「お前場地と付き合ってんだろ?」
 言われたことに、心が跳ねる。
 確かに、二人が恋人関係であったことには間違いがなかった。短くても、互いを愛し合っていた時間は確かに千冬の中で残っている。
 正直なところ、この関係性を場地が仲間へ話しているとは思わなかった。あんなことがあって、一体どうしてという思いが胸の内を占めたのも仕方のないことだろう。
 そんな風に忙しい心情だったから、「それで、場地を裏切った」なんて続けられた言葉へ思わず彼を睨みつけるようにして見てしまう。
 すると、相手は少し嬉しそうになったのだ。
「ふーん、そんな顔できるんだー。意外」
「……アンタ一体なにが言いたいんスか」
「べつにィ? 黒猫ってもっと人間味ないやつかと思ってたんだけどさ」
 千冬には、一虎が何を考えてそんなことを言ってくるのかが理解できなかった。正しくは、理解できないフリをした。それでも言われたことへ反射的に反応してしまったものだから、今更取り繕っても無駄という事くらいは分かる。
 これまでずっと、黒猫として人間味のない人柄を装ってきたはずなのに、それが悉く通用しないのだった。そう、千冬はすっかり相手のペースに飲まれている。
 次に何を言うべきかと悩んでしまった千冬を無視して一虎は再び勝手に話を続ける。
「お前が起きたの知ったら、場地安心すると思うよ。アイツ、マジでお前の事心配してたから」
「……」
 場地の名に、また心臓が跳ねたような気がした。それに気づかれたくなくて誤魔化すように下を向いたけれど、逆効果だったかもしれない。果たしてそれを見た一虎は何を想像したのだろうか。
 最後にそう言うと、一虎は立ち上がって千冬に背を向けた。
「起きたばっかのとこごめんなー。寝てていいぞ」
 言ったままに、病室を出て行ったようだ。
 彼がこれから何をするかなんて、赤子でもわかることだろう。きっと、医師を呼びに行くに違いない。彼、一虎が目覚めていた事には驚いたが、自分が今着せられている服と同じ格好をしていると思い当たった。きっと、彼もまだ患者としてここにいるのだろう。全く奇妙な縁だ。
 さて、一虎が去った瞬間千冬は考える。これだけは絶対に間違いのない事だろうと結論づけた。
「やっぱり場地さんに、会うわけにいかねえ」
 彼は千冬の真実を知っていたのだ。黒猫と名乗りながらその情報を流す役目を買っていたことを知られてしまった。だから、一虎に二人の関係性を告げたに違いない。この際、あのやり取りだけでここまで考えてしまった事に、想像力が豊かと思われても致し方ないだろう。
 ここから出なければと、それだけが脳内を支配した。とにかく、場地に会うわけにはいかないのだ。慌ててベッドから飛び出すと、まずは出入り口を目指す。右足を地面に付けた時感じた自身の身体の重さに驚きながら、外に飛び出た。
(身体、思った通りに動かねえ……)
 しばらく眠っていたせいだろうか? 少し歩いただけでも震えてくるのが分かる。もしこれ以上意識不明の状態が続いていたら、きっと動くことすらできなかったに違いない。それに、傷を負った部分が動く度に痛むものだから、脂汗が滲んできたようだ。
 それでもとにかく今はここにいるわけにはいかないという、その決意にも似た何かだけが確かにあった。

前話
続き

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

inserted by FC2 system