黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉚

【三十章】


「場地さん、お帰りなさい! お疲れ様っス!」
「おー。タダイマ」
「そろそろって思ったんで、茶淹れましたよ!」
 場地が部屋に入るなり元気いっぱいに駆け寄ってきた千冬。急いだ様子が、乱れた前髪から伝わってきた。そんな愛しい恋人の柔らかい金色の髪をそっと梳いて、場地も思わず破顔するのだった。
「あんがとな。今日はどーしてたん」
 離れていた時間、千冬がどうしていたのか、つい知りたいと思ってしまう。そして千冬も、場地と離れていた時間をどう過ごしていたか話すのが好きなのだ。
「タケミっちに同行してもらって、この前脱税したってところの現場確認行ってました。現場の記録、取らないといけねえって聞いてたんで」
「あれか。弐番隊がなんかやってたな。三ツ谷が言ってた気がするワ」
「はい、そうです。あそこに積んであるのが報告っスね。目、通しました?」
「……そんな話あったっけ?」
「後で一緒に確認しましょう。……あ、場地さん、明日時間ありますか。黒蛇のところに行って、西領が国の監視下に置かれることになったってことを伝えたいんスけど、オレ一人じゃさすがにだめだと思うんで……」
「あー、アイツか」
 王宮内の牢で服役に当たっている該当の人物を思い出して、場地は頷いた。投獄されている身だけれど、黒猫寄りの思考をした人物だったと思い出す。千冬が会っても問題はないだろう。
 しばし会話をする場地と千冬だったけれど、彼は不意にハッと何かを思い出したようだった。手に持っている書類らしきものに、目を向けている。
「あ、すんません、これ戻すようにって言われてたんス。ちょっとマイキー君の執務室、行ってきます!」
「おー、走ンなよ」
 千冬は今、東卍組織内で職務に当たっている。尤も兵員ではなく、庶務担当。……と言えば聞こえはいいが、要は雑用係だ。
 西領で進行していた恐ろしい計画は、黒猫こと千冬の協力のもと無事に阻止された。結果的に、ボスであった番犬は命に別条がないことが判明次第、投獄されたのだった。№3であった黒蛇は、本人が服役を希望したため現在はそのようになっている。
 長い闘いは、幕を閉じたのだ。
 敵対組織である霧の幹部であった千冬を、真一郎と万次郎は咎めたりしなかった。必要情報を全て明け渡した彼の誠実さを認めて、東卍の協力者として扱ってくれることになったのだ。そして、これまでの行動が認められて東卍の組織に関わることが許された。あまりにも甘い判断だと、東卍を糾弾するものも中にはいるだろう。けれど、その点は千冬が齎した結果によって合理的に判断されたのだと、そう結論付けられている。
 きっとこれは、漸く傍にいられることになった二人のことを気遣った兄弟なりの優しさなのだ。と言っても、真相を彼らに尋ねた日にはもれなくからかわれることが分かっているから、まずは二人で過ごせる時間を優先しているところなのだけれど。
 そんなわけで千冬は現在壱番隊を中心に、つい後回しになりがちな職務を担当している。元々裏で工作をするのが得意なタイプだったから、要領よく動いてくれるのが東卍にも良い影響を与えていた。
場地は、もう暫くしたら彼が雑用係から正式な東卍のメンバーに昇格することを知っていた。本人より先に隊長である場地へ、万次郎が伝えた言葉を思い出す。千冬は東卍に必要な存在になると、そう言われて感じたのは喜びだった。
 かねてより空席になっていた壱番隊副隊長の座。その椅子に千冬が座る日は近いだろう。
 部屋を出ていく後ろ姿を見送って、少しだけ寂しいと思ってしまう。
この時間帯なら、万次郎も自室に戻っていることだろう。そうなると、彼の話に捕まって戻ってくるのが遅くなるかもしれない。リーダーが思った以上に千冬を気に入ってくれていることは、当然把握している。
今せっかく外から戻ってきたというのに、千冬と過ごす時間が減ってしまう。なんて思わず考えてしまうのだった。
 それでも、今までだったら絶対にあり得なかったことが今はこうして当然のようになっている。その事実が場地にとっては何よりも幸せだった。
「……茶、美味えな」
 本当は一緒に飲みたかったところだけれど。冷めてしまったら、彼の気遣いを無駄にしてしまうだろう。飲み干したころに千冬は帰ってきてくれると分かっている。
 だって、これからはいつだってお互いが帰るべきところなのだから。



 もうだめだ、千冬少年は絶望した。
 母を助けたかったけれど、恐ろしい炎の前で千冬はただただ無力だったのだ。
(母ちゃん……)
 そのまま千冬の意識は、暗い所へ落ちて行った。
 それからどれくらい経っただろうか。
 次に目覚めた時、千冬は自身が誰かに背負われていた。人の息遣いと、足音が耳に入ってきて、意識が戻ってきたのだった。
「ん……」
「大丈夫か?」
 聞こえてきたのは、年の近い少年の声。すぐにその声の主が千冬を運んでくれているのだと分かった。
「……あれ……オレ……」
 何とか声を出したけれど、掠れていた。息が零れただけのように、乾いた音。しかし相手は千冬の言いたいことをわかってくれたらしい。すぐに何が起きたかを教えてくれる。
「……オマエ、火事に巻き込まれたの覚えてるか? 火が見えたんで行ったら、オマエが倒れてた」
「火事……? オレ……っ!」
 その時、全てを思い出したのだ。
 何があったのか。その全てを。
「母ちゃん……!」
 そうだ、家が火に包まれて。それなのに千冬は何もできなかった。少年の身にはあまりにも重い絶望が襲う。
 相手はそんな千冬の動揺を感じ取ったらしい。
 優しい声が、心配そうに尋ねてくる。
「どうした?」
「母ちゃんが……!」
 その後は言葉にならなかった。母親がどうなってしまったのかは、わからない。それでも幼いながらに、もう二度と母に会えない事だけは悟ってしまった。じんわりと、瞳に涙が滲む。
 そんな千冬を落ち着かせるためだろうか。少年は、火消しを呼んだことを教えてくれた。その気遣いが、幼心に与えた安心感は大きかったのだと、そう思っている。だから父親のことを尋ねられた時も、戸惑うことなくすでに鬼籍であるという事実を伝えることができたのだろう。
 それからしばらくして千冬はもう一度、背負われていることを思い出したのだった。
「あの……オレもう歩けるよ」
「無理してねえ?」
「うん……」
「そーだ、オマエ名前は? オレは場地家の長男」
「場地、さん……」
「ハハ、ソレ、オレな」
「あ、えっと……オレ、千冬」
 場地さん。心の中で、もう一度今教えてもらった名を復唱した。
 彼は、不安な気持ちで押しつぶされそうになっていた千冬を気遣って、朝になったら母親を一緒に探そうと言ってくれたのだ。
 その笑顔があまりにも眩しくて。それだけで、押しつぶされそうなくらいに不安だった心が和らいだ。
(ああ、この人の為に、オレは生きたい) 
 これは千冬が、初めて希望を見つけた日の話だ。

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