黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑧

【八章】


「あ! 場地さん!」
「よォ」
 あの事件から、千冬は王都にある孤児院に入ることになったという。大人同士でどんな話があったのかは、当時の場地にはわからない。でも大人になって少しずつ分かってきたことを考えると、両親を亡くした千冬に行く場所はなかったのだろう。彼は人の目を惹く髪の色をしていたけれど、異国の血が混じっていたという。悲しいことに、これも彼の行き先がなかった理由の一つだったに違いない。場地からしたらとても綺麗な色だなと、彼の個性としてそれを好ましく思っていたのだけれど、大人の中には一種の区別として考える人もいたというのだから驚きだった。あれから時間が経ち、それは偏見と差別だという考え方になってきている世の中だけれど、十年前はまだその意識は薄かったのだ。
 とにかくそんなこともあって、当時ではまだ養子に貰われることも難しかったのだという。
 今となっては真一郎にとって腹違いの妹である第一王女の母親が隣国の人間だったから少しずつ受け入れられるようになってきているけれど、あの頃はまだその前段階の時代だったのだ。
 場地が助けた少年、もとい千冬は場地によく懐いた。彼が預けられることになった孤児院は場地の生家であるお屋敷にも近かったから、暇を見つけてはよく会いに行ったものだ。
 場地が名の知れた護衛官の父親の息子であることから、孤児院スタッフが場地に対しても敬語で話しかけたものだから、すっかりそれが普通のことであると思った千冬まで場地に覚えたての敬語で話すようになってしまった事だけは少しだけ残念だったけれど。それでも千冬に会うことができるのであればなんでも良くなったから不思議だ。
 その日も、勉強と稽古ごとの合間を縫って千冬へ会いに行った。
 この頃場地にとっては千冬と過ごす時間が何より一番幸せな時間だったのだ。
「場地さん、今日は何を教えてくれるんですか?」
「この前蹴り技知りたいって言ってたろ。だから今日はソレ」
「まじすか! やった! 場地さんめちゃくちゃカッコよかったっスから」
 当時場地は千冬に体術を教えてあげていた。
 ある時将来の夢が、父のような護衛官であると言った場地に、千冬がかっこいいっすね、なんて言ったのがきっかけだった。キラキラした目を向けられて、少しだけいい気分になっていたのも本音だ。本当は乗馬にも興味があるようなのだけれど、さすがに馬をここへ連れてくるわけにもいかないから。だったら体術のさわりだけでも教えてあげようかなんて考えに至ったのだった。
 千冬は運動神経が良くて、場地が教えることを何でも吸収してくれたのも大きかっただろう。そう、言うとしたら教え甲斐のある生徒だったのだ。
「場地さん、カッケエ」
「千冬も筋がいいよなー」
 手本を一度見せれば、すぐに千冬は飲み込んだ。場地にはそれが嬉しくて堪らなかった。二人並んで、今日やったことを確かめる。もしかしたら今日教わったばかりの千冬の方が身のこなしが綺麗かもしれない。それでも、変わらない瞳で場地を見つめてくるのだ。これが嬉しくない訳がなかった。
「休憩しようぜ。今日はウチの手伝いが菓子作ってくれたんだ」
「菓子! なんですか?」
「ドーナツ。チョコついてて美味いんだワ」
「うわあ、うまそー!」
「ハハ、今半分コするからサ」
 千冬に会うときは、必ず何か菓子やパンを持っていっていた。身体を動かした後はどうしても腹が減る。最初の頃に腹の虫が鳴ってしまった千冬が可哀そうで可愛くて、思いついて持っていったのがきっかけだった。そしていつしか、稽古後の半分コは二人の間の約束になっていたのだ。
「……場地さん、オレそっちでいいっスよ?」
「いーって。こっちのチョコついてるほう食え」
「でも……」
「エンリョすんなって。次の時はオレがチョコな?」
「っ、ハイ!」
 場地から貰うものは何でも嬉しそうに貰ってくれる千冬が、愛しくて仕方なかった。そう、場地にとって千冬は愛おしいという言葉を初めて覚えた存在だったのだ。
 千冬と出会って、間もなく半年ほどになるだろう。この頃には、会いに行くと決まって満面の笑みを浮かべてくれる彼の事ばかり考えていたように思う。
(万次郎にも会わせてやりてェな)
 この数年後には場所構い無しに勝手に王宮を出るようになる万次郎だが、この頃はまだ城にいる方が多かった。王宮からこの院に来るまでは少し距離があったから、二人にも友達になってほしいと思いつつなかなかその機会がなかったのだった。
 長く続くと信じて疑わなかったそんな楽しい日々が、あっという間に崩れたのは今から十年前のことだ。 
 場地八歳、千冬七歳の春先の事。
 何の前触れもなく、本当にあっという間に、場地と千冬の時間は奪われた。
 やけに朝から屋敷が騒がしいと思った。正確には、屋敷の外から得体のしれないざわめきを感じたのだ。
(なんだ……?)
 目が覚めたばかりで何も支度をしていなかったにもかかわらず、場地は自室から飛び出ていく。何か良くないことが起こっているような気がして仕方がなかった。そしてその不安を、誰かに笑い飛ばして欲しかった。けれど現実は甘くない。その先で聞かされた話に、絶望を覚えることになったのだ。
「は……? 千冬の院が……襲撃……?」
 夜のうちの犯行だったという。なぜ孤児院が狙われることになったのかは今でもわからない。しかし、ならず者達によって職員含め二十人ほどが生活をしている孤児院が夜の間に襲撃にあったというのは間違いないという。
「ち、千冬は、あいつは無事なのかよ⁉」
 思わず場地は叫んだ。彼に何かあったら。そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。一刻も早く、千冬の無事が知りたかった。
 場地が取り乱してるのを見て、幼いころから世話をしてくれている付き人は、落ち着いて聞いてくださいと言いながらそんな彼を嗜めたのだった。
「悪ィ」
「坊ちゃんの心配はごもっともです。……それで、ご友人ですが、今は病院にいるそうです」
「病院……」
「怪我をしたのかどうなのか、それはまだわかりません。でも、良くしてくれていた職員がその、亡くなってしまったので……」
 ただでさえ孤児院という場所柄、幼いころに両親と死別してしまった子どもが多い空間。そんな場所で、数人の犠牲が出てしまったというのだから、精神面的なケアも必要だったのだろう。たとえ身体面に何もなくても、恐怖というものはそう簡単に消えるものではない。
 千冬が運ばれたという病院を世話役から聞き出した場地は、すぐに身支度を整えると孤児院にいた人達が運び込まれたというその場に駆け付けた。焦るままに彼らが運ばれた病室を聞き出し、いけないと分かっていつつも廊下を駆け抜ける。その目で千冬の無事を確かめない訳には、いかなかったのだ。
「千冬!」
 大声を出したせいか病室へ入った場地に、いくつもの視線が向けられる。一体何事だという様子だった。それも当然だろう、千冬が運び込まれたのは合同部屋で他の患者もいたのだから。
 その視線を感じると、さすがに大声を出してしまった事が恥ずかしくて少しだけ頭を下げた。尤も最初の驚きがなくなると、病室に来ていた他の見舞客や患者はもう場地を気にしてはいなかった。そのことにほっと肩を撫で下ろすと、場地はゆっくり目的の人物を探す。
(千冬、千冬……)
 脳内でまるで呪文を唱えるように名前を呼んだ。ここは大部屋で、十数人は患者がいるだろう。入り口から順番に見て行かないと、彼が本当にこの病室にいるのかわからなかった。もし部屋を間違えていたなら、もう一度順番に探す必要がある。
けれど仕切りがないのが幸いして、目的の人物はすぐに見当たった。
「……千冬」
 探していた目的の彼は、丁度眠っていたようだった。大きな目は瞼の裏に隠され、長い睫毛が良く見えた。
 彼の身体にかけられている白い布団がゆっくり上下していることに安心する。ぱっと見たところ、外傷もないようだ。思わず場地は泣きそうになる。
 無事でよかった、心の底からそう思った。
 その時だった。
「圭介様?」
 不意に声を掛けられて振り返る。一瞬、屋敷の使いが付いてきたのかと思った。しかし見た先にはすぐに名前が思い当たる人物はいなかった。振り返った先にいたのはセミロング位の髪の長さの女性。一応どこかで見たことのある顔だが、名前が思い出せない。元々あまり人の顔と名前を覚えているほうではないけれど、誰だったか。
「お、オウ」
「私は、千冬君の院の先生助手……見習いママです」
「ああ」
 すぐに納得する。千冬がいた孤児院には数人の先生、通称ママと、その助手がいるのを知っていた。なるほどこの人もそのうちの一人だからかすかな記憶に残っていたのだろう。きっと千冬に会いに行ったとき、姿を見かけていたに違いない。
 彼女は場地がどうやら自分を思い出したらしいことを感じたらしく、言葉を続けた。
「来てくれてありがとうございます。この子はあなたのことが大好きだったから、目を覚ましたら喜ぶと思いますよ」
「……事件があったって聞いて、心配で」
 素直に告げると、彼女は少し悲しそうな顔をした。まだ昨夜の出来事なのだ。きっと心の整理が付いていないのだろう。場地はまだ、事件の詳細を知らない。聞かされたままに飛び出してきたのだから。それでも彼女の様子を見ると、よほどのことがあったのだと想像するくらいはできた。
 場地は思わず、布団からはみ出ていた千冬の右手を握った。
「千冬君が、他の小さい子達を守ってくれたんですよ」
 ぽつりと、女性の口から言葉が漏れる。
「守った?」
 場地は聞き返した。対して彼女は、首を縦に振った。そのまま場地に昨夜の状況を教えてくれる。
「こんなこと、お聞かせするべきではないのかもしれないけれど……本当に突然、刃物を持った男達が入ってきて……ママ達が何人も刺されたんです。そしたら千冬君が、小さい子達を連れて逃げてくれて……その間に、助けを呼ぶことができたんですよ。……仲間を守ることが大事だから、って言って……」
 最後の方は、場地に話を聞かせるというよりは思い出したことをそのまま口にしているようだった。けれどそれを聞いて、場地は素直に嬉しいと思ったのだった。「仲間を守ること」これは、場地が常に彼へ言って聞かせていたことだったから。大切なのは仲間であると、いつも語ってきた。千冬はその教えを守ったのだ。
「私なんて、震えるだけで何もできなくて。……でもちぃ君……千冬君は真っ先に子ども達を守ろうとしてくれて……この子も、怖かったはずなのに」
 場地がいる場所の反対へ立った見習いママは、千冬の髪をそっと撫でた。場地はその様子を、ただただ見つめる。
「もし目が覚めたら、変わりに褒めてやってください」
 女性は最後にそう言うと、他の子の様子も見に行くからと言って、場地に一礼し去って行った。
 残された場地は、千冬の白い顔を見つめる。
 誇らしいと、思った。
「千冬、ちぃ、オマエえらいよ」
 素直な気持ちだった。
 場地には、一日でも早く一人前になって真一郎を、そして万次郎を守りたいという夢がある。でもまだまだ非力でそれには及ばないから、日々稽古を重ねている。もうすぐこの国の兵団に入るための訓練校に通う予定だって立っている。
 けれど千冬は早くも仲間を守ったのだ。千冬だってきっと怖かったに違いない。もし彼が怯えてその場に残ることになってしまったら。犠牲者はもっと増えてしまっていたかもしれない。彼自身も、無事ではなかったかもしれない。千冬は少年少女達の未来を守った。
「オレオマエをソンケーする」
 心の底からの言葉だった。
 もし千冬の目が覚めていたら、これ以上ないほどに喜んでくれたことだろう。
 もう一度、右手を強く握りしめた。
その時だった。
「……ぅ」
「! 千冬⁉」
「……ぇ……? ばじ、さん……?」
 千冬の目が薄く開き、場地は思わず立ち上がって上から彼の顔を覗き込む。はやく、その瞳を自分の瞳と重ね合わせて欲しかった。そして本当の無事を確かめたかった。
「良かった、わかるか? どっか痛いところとかねェ?」
「アレ……オレ……」
「ムリに動くなって。ゴロツキに襲われたんだろ? 大変だったなあ」
 状況がわからない、そういった様子の千冬だったけれど、徐々に思い出したのだろう。その瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 それを見て、場地は焦る。起きたての脳にはあまりにも負担の大きな事を思い出させてしまった。
「思い出させちまって、ゴメン……」
 立ち上がった時にうっかり離してしまった千冬の右手を、もう一度取ると彼の頬に少しだけ赤みが宿った。
 そのうちに、状況が理解できてきたのだろう。千冬はふわっと微笑んだ。
「……大丈夫っス。場地さんはなんも悪くないっスよ。……来てくれて、ありがとうございます」
「オマエになんかあったら、って思ったら心配でさ」
「場地さん……」
 思っていることを素直に伝えながら、目に入りそうになっている前髪をそっと梳いてあげる。
「千冬が院の子達守ったって、さっき女の人が来て、言ってた。千冬はすげえな」
 こんくらいの髪の見習いママさん、と自分の首下あたりに左手を持っていきながら伝えると、千冬はマリ先生と言った。
「……急にでかいオッサンたちが院に入ってきて……ワケわかんねえこと言ってて……ソイツらが先生たちをいきなり刺して……その時に場地さんが仲間を大事にしろって言ってたの思い出して……守んなきゃって」
 千冬の口から言葉が漏れる。頭の中で、今必死に覚えていることを整理整頓しているのだろう。
 場地はそれを、ただただ聞いた。
「オウ」
「怖かったけど、でも、オレだって場地さんみたいに強くなりたかったから」
「ジュ―ブン強いワ」
「ほんとスか? 嬉しい……」
 嬉しい、そう言った千冬はその通りに幸せそうな顔をした。それを見て何だか心がぎゅっと締め付けられるような気分になって、場地は思わず千冬を抱きしめた。
「ばじさん……⁉」
「……ちぃが無事で、マジでよかった」
 嘘偽りない気持ちだった。彼が無事でよかった。
 心の底からの想いを、抱きしめた部分から感じて欲しいと願ってしまうくらいに。
 少し戸惑っていた千冬だったけれど、そのまま場地の首へ自身の腕を回してくれる。そうしてぎゅっと抱きしめ合うと、漸く緊張の糸が切れたのだろう、すすり泣きが聞こえてきて。それがまた場地の胸を締め付けるのだった。
 そのまま千冬が落ち着くまで、二人は抱きしめ合っていた。
 しかし千冬の目が覚め落ち着いたところで、場地は残念なことに今日午後一番で教師が屋敷に来ることになっていることを思い出す。将来有望な彼はこの年齢でも日々忙しい。残念ながらタイムリミットだろう。目に寂しそうな色を浮かべた千冬に長く居られないことを詫びつつ、場地自身も名残惜しさを感じながら病院を後にした。最後にひと撫でした彼の髪が柔らかくて、本当はずっと触っていたかったのだけれど。
 この時、この瞬間。
 場地は千冬のことが好きだと気づいたのだ。彼が喜ぶと場地も嬉しくて、幸せな気持ちになったのだから。紛れもない初恋が千冬だった。これまで、幼馴染のために強くなりたいと思っていたけれど、今度は彼を守るために強くなりたい。そう思ったのだ。
 ――こうしてあの日々をなぞりながら長い回想を終えると、いつも胸が締め付けられるように苦しくなる。
(千冬、逢いたい) 
 閉じた場地の瞳から、一筋の涙が零れる。
 場地が千冬に会うことができたのは、あの日が最後だった。
よりにもよって初恋を自覚したあの後。千冬は数日のうちに違う施設への受け入れが決まったらしい。らしいというのは、確実な情報が何もなかったから。混乱のままに、残された子ども達の預け先手続きが進められていたのだろう。
 千冬がどこに行ったのかは、今となってはもうわからない。最後にあの病室で会った後、数日忙しくて病院にも院があった場所にも行くことができなかったのだ。
 それまでだって、数日千冬に会えないことはあった。
 だから早く逢いたいという気持ちはあったけれど、また遊べる、話ができるというその思い込みで数日を過ごして。そして彼の行方が知れないと分かった時の絶望を今でも覚えている。ざっと血の気が引く感覚を、立っていたのに足元の感覚が消えたあの瞬間を忘れることなんて一生無い。
 大人になっていく過程で、何度も彼を探した。東卍を結成した十三の歳にもなればある程度の自由だって効く立場になっていたのだ。そう、十三の歳、東卍の結成がその頃。母の背を越えたのもこの頃だった。職権乱用と思いつつ、部下にあの施設を出た子達がどこへ行ったのかを調べさせたこともある。それでも今尚、千冬は見つかっていない。

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