黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑦

【七章】


「坊ちゃん! どこへ行くんですか、お母様に叱られますよ!」
「すぐ戻るから! オフクロには何とかゴマカシといて!」
 場地少年は、護衛官の長男として生を受けた。真一郎と万次郎の両親が健在だった頃から王族である佐野一族と親交のある家系に生まれたのだ。場地の父親は当時第一王位継承者だった真一郎の父直属の護衛官だった。親同士も幼いころからの知り合いで、上下関係はあれど、良好な関係を築いていた。当然のように息子である圭介も幼少から真一郎と万次郎に親交があった。
 幼い頃の夢は、父のような護衛官になること。この家系にとって護衛官になることはある意味で逃れられない運命であったけれど、場地にとっては天職が始めから用意されていたようなものだった。憧れの真一郎君を守るんだと、そう思ってこれまでの日々を過ごしてきたのだから。いつも優しい年上の幼馴染が、そして何度喧嘩しても勝てないが憎めない同い年の幼馴染が場地少年は大好きだったのだ。
 さて、その日場地は父の付き添いでとある街はずれへ訪れていた。王子の視察に同行した父に、お前も七つになるのだしせっかくなら来るかと言われて。笑顔で返事をしたものだ。けれど大人同士の会議に少年が入ることは叶わず、時間を持て余していた。
 もともとじっとしているのが得意ではないから、せっかくだし見慣れない街を散歩でもしに行こうと思ったのだ。お付きのメイドが困った声を上げるのなんてお構いなしに飛び出した。
 あの時、父についてこの街へ来なかったら。そして外へ出なかったら、彼に出会うことなどなかっただろう。
 場地は今でもあの日の自分に感謝をし続けている。
 さて勢いよく宿を飛び出した場地だったけれど、当然行く先に当てがあるわけではなかった。朝から移動して、到着したのが昼過ぎ。それから歓迎を受けたりなんだりして、その後空いた時間で出てきた。時刻はそろそろ夕刻だろう。日が沈むまではきっとあと僅か。
「なんかねェかな」
 なんて言っても、何もないのが正直なところだった。街並みが見られたのと、細路地に猫がいたのでそれで満足しよう、さすがにそろそろ戻らないと父親が会議から戻ってきてしまう、そう思ったその時。
「……なんだ……? 火……?」
 異変に気付いたのだった。
 そこからの行動ははやかった。恐らく向こう側で火事が起きている。離れていると言っても近くには木が生い茂っていて、すぐ消火に当たらないとあっという間に燃え広がってしまうだろうと。
 王都の密集地帯に馴染みのある場地には、それがどういう事が良く分かっていた。だから大人を呼ばなければいけないと思ってすぐに近くの家の扉を叩く。場地はこういう時に自分がまだまだ非力な子どもであることを良く知っていた。考えるよりも動いてしまう質だけれど、父の教えが常に胸の奥にあったのだ。お前は七つになったが、背丈を見ろ、まだ母を越えていないだろう。一人前とは母の背を越してからだというのが父の口癖だったから。やんちゃ少年は、母のことを出されると弱い。
 さて、扉を叩かれた住人は、部屋の中から「一体何だ!」と叫んで怒りながら出てきた。一瞬その勢いに怯みかけたけれど、今は有事だ。頼む、話を聞いてくれと告げる。住人は見慣れない子どもの必死な様子に一瞬訝しげな顔をした。しかし目先の人物が視察団の証を身に付けていたものだから、何事だと思ってすぐに話を聞き入れてくれたのだった。
 そうして火事が起きていると知った住人はあっという間に街中へ異変を知らせてくれた。
(人とか……、住んでたら……)
 彼が火消しを呼ぶ間、場地はふと思った。もう大人は呼んだし、あとは何もすることがない。当然ここで場地が巻き込まれるわけにはいかない。そうわかっていたのに、なぜか火が見える先が気になってしまった。
 そう思った気持ちのままに駆けていけたのは、当時まだ何も背負う事のない無垢な少年だったからだろう。少なくとも今の場地が同じような出来事に遭遇したとしても、立場やいろんなことを考えたら勝手なことはできないだろうから。
 そうして林の奥へ駆けて行って。
 そこで出会ったのが、同じくらいの歳の明るい髪色をした少年だった。



「……朝か」
 随分とぐっすり眠ってしまっていたらしい。近頃一虎の一件もあって細切れにしか眠れていなかったから、その限界が来たのだろう。
 それでもまだ、起床の時間には少し早いらしい。外は明るくなりかけているけれど、光の入り方はまだ弱かった。
「……随分と懐かしい夢、見たもんだなァ」
 しみじみとした口調だ。
 それは今だって忘れられない、幼い日の大切な思い出だった。
「あいつ……。今どこにいんだろな……」
 最後に会ったのはいつだっただろうか。もう十年は前だ。正直、生きているかさえ分からない。せめてその命が無事であることを、何度願ってきただろうか。
「……千冬」
 まだもう少しだけ、時間があるだろう。もう何度も辿ってきたその日のことを、場地は再び邂逅した。
 あの後、走って行った先で出会った少年は火事に見舞われた家の住人だった。家の外に倒れているのを発見したのだ。
「おい、おい! 目ェ覚ませ!」
 恐らく生きているその少年の元へ駆けて行って、その身体を起こそうとした。けれど少年は意識を失っているらしく、呼びかけても反応がなかった。見たところは怪我をしていないようで安心したけれど、よく観察するとその顔が涙で濡れていることに気づく。
「……こっから離れねェと」
 でも、悠長に少年を起こしている暇はないだろう。家から少し離れたこの場でも凄まじい火の熱さが伝わってくるのだ。ここは危険だ、早くここから離れなければ、そう思って場地は少年を担ぐことにした。護衛官である父直々に指導を付けて貰っている場地は、同世代の子どもよりも人の身体の持ちあげ方や運び方にも詳しかった。力もそれなりにあるから、一回りほど小さな彼であれば担ぐことはできると思ったのだ。
その予想通り、ぐったりとしているためか見た目よりも少々重たい身体ではあったけれど、なんとか背負うことができた。その時少年の息が耳に当たって、生きていることがわかって歓喜した。
「怖かったよな、もう大丈夫だ」
 返事が戻ってくるわけはないとわかっていたけれど、声を掛けずにいられなかった。
 そのまま、今来た道を通って街の方まで戻ることにする。今夜の宿まで戻ってしまえば、この街の医師にだって掛かることができるだろう。まだ生きているのだから、助けてあげたかった。
 しかし、そんな場地の心配はすぐに消えることとなる。
「ん……」
 か細い声が左耳に飛び込んできて、場地は一瞬だけびっくりした。少年を背負っていることは当然理解していても、人が近くにいると小さな声でもこんなに聞こえることを知らなかったから。でも、彼が目を覚ましたことがわかって心底ほっとした。
「大丈夫か?」
 驚かせてしまうだろうか、そう思ったけれど声を掛けずにいられなかった。するとその声で本格的に少年は目を覚ましたのだろう。
「……あれ……オレ……」
 掠れた声が聞こえてくる。
「……オマエ、火事に巻き込まれたの覚えてるか? 火が見えたんで行ったら、オマエが倒れてた」
「火事……? オレ……っ!」
 場地の言葉で少年は何かを思い出したらしい。動揺が、背負ってくっついた部分からも伝わってきた。場地は大きく動いた少年が落ちてしまわないように、彼を背負いなおす。
「母ちゃん……!」
「どうした?」
「母ちゃんが……!」
 たった一言。子ども時代の場地でもそれだけでなんとなくの事情を察してしまった。あの家はやはり、少年の家だったのだろう。そして母ちゃんという事は、彼の母親はきっと。
 必死で頭を巡らせた。こういう時に、なんと言ったらいいのかがわからない。普段、言葉よりも行動の方が圧倒的に多いのだ。それに場地だって、当時はまだ七歳の少年だったのだから。
何とか口から出てきたのは、彼にとって安心できるかできないかさえ良く分からないものだった。
「……火消しは、呼んである。たぶんそろそろ着いてるころだ。……オマエ、親父さんは」
「……父ちゃんは、もうけっこう前に死んでる……」
「……そっか」
「外から帰ってきたら、火が見えて……行ったら火が……それで、母ちゃんがいなくて……」
 細切れな言葉が少年の口から零れていく。受け止めきれない現実がその口から語られていく。場地はその言葉を聞きながら、心が張り裂けそうだった。とても怖い思いをしたのだという事が伝わってくる。そして本格的に泣き始めた少年を背負ったまま、街へ向かって足を進めて行った。
 もう間もなく林を抜ける、その手前になる頃、少年は落ち着きを取り戻したようだった。控えめに、場地へ声を掛けてきた。背負われていることに気づいたのだろう。
「あの……オレもう歩けるよ」
「無理してねえ?」
「うん……」
 変わらず控えめな声ではあったけれど、少年は肯定を返してくる。だから場地は一度立ち止まってその背から彼を降ろしてあげた。感じていた重みが無くなって、少しだけ寂しいと思う。向かい合って立ってみると、やはり場地より少しだけ背の低い、同世代位の子だという事がわかる。
 その時、場地は大事なことに気づいた。このまま一旦宿へ連れて行くのは勝手に決めたけれど、まだ彼の名を聞いていないということに。
「そーだ、オマエ名前は? オレは場地家の長男」
 圭介と名乗っても良かったのだけれど、今日この街に王子とその側近として付いてくるのが場地という護衛官であるのは知れた話だろうから、先に身分を明かしておくことにした。後々驚かせてしまうのもかわいそうだと思ったのだ。もしかしたらすでに付けている証を見て少年ながらに察しているかもしれないと思ったけれど、念のために。王都の良家で生まれ育った場地少年にとっては、自身の名を明かすことはとても大事な事だと教えられていたのだった。
 しかし彼はきょとんとしたままだった。その顔を見て、外れにあった家の子だし知らなかったかもしれないなと思い直したのだけれど。
「場地、さん……」
「ハハ、ソレ、オレな」
「あ、えっと……オレ、千冬」
「千冬か。千冬ぅ、今日はオレんとこ来いよ。親父にはオレが言うからさ」
 大人になってから考えると、なんとも強引な言い方だったと思う。それでも、あの時の場地はとにかく不安で仕方ないだろう彼を元気づけたい一心だったのだ。
「え? でも……」
「もしかしたら母ちゃん街に逃げてるかもしんねェだろ。明日一緒に探しに行こう」
 これも、大人になって思い返すとなんとも残酷なことを言ったと思う。でも、あの時に泣き腫らした顔でも笑顔になってくれた千冬の顔を思い出すから、あれで良かったのだと思う事にしているのだ。

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