黒猫は夢を見る

黒猫は夢を見る

黒猫は今宵壱等星の夢を見る  After Episode


これが本当の××


 おはよう、口にすることがこんなにも嬉しいことだなんて、知らなかった。……というのは少しだけ語弊があって、おはようが嬉しいなんて当然のことだ。場地が普段身を置いている世界では、明日何かがあってもおかしくないのだから。四音のその言葉が嬉しいんじゃない。それを一番に聞かせてくれるのが誰であるかが重要。……なんて、もし友人達に知られたら、また惚気話? 自覚なしで言ってんのかよ、場地ぃ~、幸せそーだなぁ! だとかなんだと言われそうだから、決して口にしないのだけれど。
 幸せ? そんなの当然に決まってる。だって場地の朝は、誰より愛しい彼の一声を聞くことで始まるようになったのだから。
「場地さん、おはようございます」
「……んあ? ……ちぃ?」
「ふは、それ、こっちおいでって感じの手招きですか? もしかしてまだ寝ぼけてます? 朝ですよ」
 白色が、目の端に映る。くすくすなんて感じのニュアンスを含めつつそう言いながら、千冬が日の光を部屋へ迎え入れたようだ。季節柄、晴れていることの多い時期。ぽかぽかとした太陽は優しい光かつ柔らかい。その心地よさで一日の始まりを祝福してくれているようだった。
 尤も、起こされた方はそんなわけにいかない様子だけれど。
「……ねみぃ」
「二度寝、ダメっス。今日は朝一でマイキー君に呼ばれてるって、言ってたでしょ」
「アイツ、ゼッテェ起きてねェ……だからオレも、ね、る……」
「ばーじさぁん!」
 朝、一番好きな声が自分をまどろみの中から引き上げてくれるこの瞬間が、たまらなく幸せだ。
 千冬を取り戻してもうすぐ一年が経つ頃。取り戻す、という言葉は使い方が少し違うかもしれない。二人がそれまで過ごしてきた時間は、環境も状況も何もかもが全く違っていたのだから。千冬にだってちゃんとした意思があった上で過ぎて行った時間だ。そう、場地にとって千冬と今こうして共にいられることは、彼が自分の元に戻ってきてくれたからだと思っている。
「マイキー君ならとっくにドラケン君が起こしてくれてますよ! 午後だって、新隊員の指導入ってるみたいですし、アンタ今日忙しいんですからね!」
 だから、起きて、と身体を揺さぶられる。そうすると深いところにあった意識が少しずつ上がってきて、覚醒してくるのは当然だ。本当はまだもう少しだけ、布団と仲良くしていたいところだけれど。せっかく世話を焼いてくれている千冬をこれ以上困り果てさせるのも忍びない。それにこのままだと、そろそろ目覚まし役の為に合い鍵を渡したと思われてしまうだろう。
「おきる、おきるから、ヤメロ……」
「はい。……場地さん、おはようございます」
 起きることが大の得意というわけではないけれど、不得意という事もなかった。まれに夢見が悪くて飛び起きることはありつつ、自然と目が覚めることの方が多かったはずなのに。それでも、朝は千冬が起こしに来てくれる、そんな甘えが生まれたおかげで最近は特にこんな朝が増えたような気がしている。
一度贅沢を覚えると、足りなくなってしまうのはなぜだろう。
「……はよ」
 その時場地は、今日初めて千冬を視界の中に入れた。
(髪光ってて、キレイだ)
 そんな感想を抱いた。
 柔らかい光が、彼特有の絹のような髪に反射している。神々しささえ覚える光景に思わず感情が高ぶってしまって、瞳が潤みそうになったのは内緒だ。
 千冬は良く、場地のことを光に例えた。アンタがオレの一等星だと、聞く方が照れてしまうことを、静かに淡々と、事実だからと、そう口にするのだった。
 場地にずっと憧れてきたのだと、その事を伝えてきた時、千冬は感極まって涙を零しそうになっていた。言われた側からしたらつい照れてしまって、そんなにオレの事好き? なんて冗談めかして聞き返しそうになってしまったのだけれど。本当に幸せそうな表情をする千冬の心を蔑ろにするようなことはしたくなかったから、素直に受け入れることにしたのだった。
 心の内をずっと秘めたまま長い時間を過ごしてきた千冬にとって、やっとその本人に敬愛の意を告げることができた瞬間だったのだろう。もしかしたら一生来ないと思っていた、至上の時。今まで誰にも打ち明けられなかっただろう一番柔らかい心を受け渡してくれたのだから、その言葉ごと大事にしてやろうと決めたのだった。
 そう、つまり、場地からしたら逆なのだ。
 光が千冬。まっすぐ自身を慕ってくれる存在があるから、また一歩進んでいける。
 そして今日は、また一つ節目の日になるはずだ。
「さ、朝飯食いましょ。オレ先に用意してきます」
「助かるワ」
「ハイ!」
 元気な返事と満面の笑み。差し込む光に負けないくらい眩しい。
 ああ、この笑顔が見たくてつい寝過ぎてしまうんだ、場地は脳内でそんな風に責任転嫁をしながら、足を床に一歩付けるのだった。



 隊によっては朝の活動が始まっているのだろう。宿舎で暮らす隊員達の共同となっている食堂は、落ち着いていた。
 朝食と夕食はなるべく同じ時間に。それが二人の中で自然にできてきた流れだ。千冬が場地を起こしに来て、支度している間に手配を整えてくれる。そんな流れがすっかり馴染んできた。初めは元霧の黒猫ということで好奇心と邪推の目を向けられていた時期もあったし、中には面と向かって絡んでくるような隊員もいた。けれど、今ではすっかり東卍の協力者として受け入れられている。壱番隊隊長の下で庶務をこなしていることが当たり前になってきて、二人が共に居ても誰も違和感を抱かなくなっているのだった。
 向かい合わせで食事を摂りながら、一日についてを共有し合う。
「オレ今日は資料片してるんで、基本場地さんの執務室にいる予定です」
「わーった。ま、すぐ終わると思うから」
「……って言って、この前マイキー君と口喧嘩かなんかして二時間くらい戻って来なかったじゃないっスか」
「……そーだっけ?」
「その顔、絶対覚えてますよね」
 正直、万次郎にからかわれてつい反応を返して……時間が経っていた、なんてことは日常茶飯事だ。多くの場合は万次郎の傍に頼れる副代表が控えているからいい塩梅で終わるのだけれど、まれに、度が過ぎる。
 じと、っとした千冬の目線から逃れるように、丁度目に入ったカップを掴んで中身を一気飲みした。どちらにしても、そろそろ行かなければならない頃合い。
 千冬もそれを察したらしい。食器は置いといてくださいねと言われて、頷く。
「他になんかやっといた方がいい事ってありますか?」
「んー、特にねえな。……あ」
 そういえば、と場地の頭に過ったことがある。今日の予定に関わる大切な事だった。その詳細をこれから総代表へ確認しに行くのだ。
「後で言うワ。そうだった、千冬ぅ」
 ついでに一つ悪戯を思いついて、場地はにやりと口角を上げた。今までのやりとりの、ちょっとした仕返しにでもなればいい。
「なんスか」
「ソレ、いつでも脱げるようにしといて」
「……へ?」
 きょとん、そんな様子で、丸っこい目が場地を見つめている。何一つわかりませんと顔に書いてあるのが面白くて、わざとらしく単語を口にしてやった。
「服」
「は……?」
「んじゃ、オレ先行くワ」
 これで、勝手にいろいろ想像してくれればそれでよしと思ってくるりと背を向ける。
 なんてこと言うんスか! 戸惑い、震える声でそう返してきた千冬はきっと周りにこの会話が聞こえていないかと見渡していることだろう。さすがに恋仲であることを東卍全体に知らせているわけがない。場地は別にいつ広まってもいいとは思っているけれど、千冬のこれからを考えたらまだ伏せているべきことくらいは分かっている。なので、当然聞こえる範囲には誰もいないことをわかって言ってやったのだ。
 慌てた気配を面白おかしく感じながら、場地は食堂を後にするのだった。



 最後に外泊したのは三週も前の事。だからあんなこと言われたのかと、千冬はそわそわ落ち着かない。執務に差し支えるようなことを、あの人は! 朝無理矢理揺さぶって起こしたのが良くなかったのだろうか、と考える。
 恋人同士とはいえ宿舎暮らし、場地は幹部で千冬は正式な隊員ですらない。実のところお互い預けている合い鍵は、真っ当に健全な理由でしか使われたことがない。「士気下げなきゃ別にいいし、隠さなくてもいいんじゃね?」と総代表は言っているけれど、千冬的にはそういうわけにもいかないというのが考えだ。だから執務中にも疑われるようなことは一切しない。
 そんなわけで、共に夜を過ごしたい日は外へ出た先で隠れるように会うのが暗黙の了解。今夜は連れ出されてしまうんだろうかとつい想像してしまうのは致し方ない事だろう。
 落ち着かないと言いつつも、気にしていない様子を装う事なんて慣れた話だ。脳内のうち半分……いや、三分の二程は先ほどのやり取りで埋められてしまったが、その他で何とか目の前にある書類を分けて行った。
 そうして、ひとまずの見通しが付いてきたその時。
「あ、場地さんの足音」
 千冬はこの部屋の主が戻ってきたことを察した。思っていたよりも早いがする。
少し靴を擦って歩く癖。この部屋にいて彼の足音が聞こえるたびに、千冬の心は晴れやかになる。
(平常心、平常心)
 心の中で呪文のようにそう唱えながら、扉が開くのを待つ。ノックなしにドアノブが回ったので、やはり彼に間違いない。
「千冬ぅ、いる? お、いた」
「お疲れ様っス」
「おー」
「早かったっスね」
「今日はどっかの誰かサンに言われたんで、ケンカ、してねェからな」
「あ、さっき言った事気にしてます?」
「どーだろな?」
「図星ってヤツっスね」
 わざとらしく言ってきた場地へ、千冬は笑って返す。ちょっとしたやり取りが楽しくて仕方ない。
「次の予定までまだ時間ありますよね。ちょっと休んだらどーですか。……あ、なんか飲みます?」
 ゆっくり部屋の中に入ってきた場地へそう伺いを立てる。
 確か午後は、新隊員の指導が予定に組み込まれていた。この時期に珍しい気もしたけれど、東卍には協力してくれている外部組織もいくつかあるから、大方編入だろうと考えている。
 尋ねたことに返答はなかった。どうしたのだろうか、と少し不思議に思う。表情を見る限り、不機嫌という事はなさそうだけれど、何かあったのだろうか。とはいえ、どちらかというと上機嫌に振れている様子。
 常であれば窓の近くに置かれている執務用の机に向かっていくところだけれど、場地は珍しく扉と机の通り道にある応接用の机の前で立ち止まった。そう、今日千冬が書類仕事をしていたその場所である。
 立っている場地と、座っている千冬。自然と仰ぎ見る形になった。
「場地さん?」
 もう一度声を掛けてみる。
「ソレ、後回しでいいからちょっと付いてきてくんねェ?」
 すると場地はそう言うのだった。



 一体どこにと聞く間もなく千冬が連れてこられたのは、東京卍會のトップがいる場所。つまり、総代表執務室だった。
 進む先がそこであることを察した瞬間、最近解決した案件の処理業務でも頼まれるのかな、どの順で今持っている業務を進行しようかなんて考える。ボスの部屋へ向かう人間とは思えないほど軽い気持ちになっていた千冬だったのだけれど、場地によって開けられたその先に見えた層々たるメンバーに一瞬だけ息が止まりかける。ついでに、軽い気持ちでいたことを後悔した。
「マイキー、千冬連れてきたワ」
「え、と、場地さん……これは一体?」
 この部屋に総代表と副代表がいるのは、日常的な事。それだけなら何も気になかった。しかし今千冬の目には、伍番隊隊長まで総勢十二名が映っているのだった。この面子が揃う席に立ち会ったのは、東卍全体への通知があるような場を除くと、たった一度だけ。東卍に協力することを認められた日の、通知の場だけだ。
「千冬、マイキーのところまで出てこい」
「は、ハイ」
 堅に呼ばれて、なんとか返事をする。想定外の出来事が起こっているせいか、思っていた以上に固い声だった。
 指示された通りに部屋の一番奥に位置している、総代表席まで歩いていく。その席に座る万次郎はこれまで何も言わずに千冬をじっと見つめていた。その視線を感じるだけでも身体が強張りそうになるのに、追い打ちをかけるように他十一人まで千冬を見ているのだ。視線が身体に突き刺さるなんて良く言う話だけれど、本当に穴が開いてしまうのではないだろうか。
 広い部屋といえど、僅か十五歩ほどの距離。それを歩く体感時間のなんと長い事だろう。霧にいた頃、番犬の下で暗躍していた時期でさえこんな風に息まで詰まってしまいそうな経験をしたことはなかった。
 それでもいずれ時はやってくる。今や千冬の目の前には、この組織の要がいるのだった。
「松野千冬」
 今や緊張は最高潮に達していた。
 最後に本名を呼ばれたのはいつだろうと、場違いなことを浮かべることでかろうじて意識を保つ。
「ハイ」
 今度は、情けないほど震えた声。未だ理解できていない状況に、頭は真っ白になる寸前だった。ほんの三分前、この扉の外にいた時はこんなことになるなんて全く想像していなかったというのに!
 万次郎の力強い視線が、千冬の上から下までをなぞっていく。とうとう身の内で脈打つ心臓の音まで聞こえてきたその瞬間。
 彼はこう言ったのだった。
「お前を今日から、壱番隊副隊長に命じる」
 千冬の中で、確かに時間が止まった。
 今、総代表は何と言っただろうか? 何か、命令を受け取った事だけは分かった。それが自分自身にものすごく大事な内容であることも、理解できている。ではその肝心の中身は一体なんだというのだろうか。千冬が彼に命じられてするべきことは何か。どうやらこれまで言われてきた、庶務的な事ではないようだ。違うのであればそれ以外に何があるというのだろう。もしかして、任務だろうか。いや、そんなわけがない。だって千冬は、本来この組織の正式な隊員ではない――。
「千冬ぅ」
「ば、じさん」
 いつの間にか、千冬の隣には場地がいた。呼ばれた時の癖で彼の声がした方へ首が動いたけれど、ぎこちなく動かしたせいか少しだけ痛みを伴った気がする。その痛覚さえ、どこか意識の外だ。
「これからヨロシクな」
「え……?」
 場地が千冬に理解できない何かを言ったその瞬間。両耳を揺さぶったのは、拍手の音だった。その大きな音に驚いて、今度は反射的に後ろを向く。今の今までずっと静かに視線を向けるだけだったその場の全員が、千冬に向けて惜しみない拍手を送っているのだ。
「千冬」
「マイキー君、っあ! すんません! 背ェ向けるなんてこと、つい」
「気にすんなって」
 今度は柔らかい声でもう一度呼ばれて、やっと意識がこちら側へ戻ってくる。ついでに目上の人へ断りもなく背を向けたことに気づいて、慌てて頭を下げたのだった。
 心も身体も混乱を極めて全くの制御不能な状態。かつての黒猫が聞いて呆れるような状態。そんな千冬の様子を見て、万次郎は笑っていた。
「ようこそ東京卍會へ。あと、壱番隊副隊長への急抜擢おめでとう。場地の事、助けてやってくれよな」
 今漸く、言われた事の全てを理解した。
「マイキー君……ありがとうございます……!」
 一度下げた頭を、これ以上ないくらいにもっと下げる。最初は謝罪だったけれど、今度は感謝の意だ。すると、誰かがその頭を思いっきり撫でてくれた。尤も、それが誰であるかは見なくても当然のようにわかるのだけれど。その手はすぐに離れていってしまい、少しだけ寂しい。
「ん。それで、あともう一つ。……なーケンチン、あと任せていーい?」
「……はあ、集中力ここで切れたか。三ツ谷、千冬に渡してやれー。あ、千冬、頭上げていいぞ」
 言われた通りにすると、弐番隊隊長が何かを持ってきて、それを手渡された。
「入隊おめでとう。これはオレらの隊服だ」
「東卍の……」
「上だけ羽織ってみな」
 わかりましたと、まずは今着ている上着を腕から抜く。この時、朝の食堂で場地がどうしてあんなことを口にしたのかを理解した。彼は今日千冬に渡される通知とこの展開を知っていたのだ。戯れのようなあのやり取りは、立派な伏線だった。案の定場地へそっと視線を向けると、してやったとでもいうような表情をしている。
(場地さんひでぇよ、こんな嬉しい事されたら……文句も言えねえじゃないっスか)
「袖に記されてんのが、所属と階級、てのは言わなくても知ってるか」
 左腕を見ると壱番隊副隊長、その文字が目に入る。とうとう感極まって、泣きそうになった。その衝動に耐えようとしたら、返答さえできなくなる。代わりに何度も首を縦に振って、肯定の意を伝えようと必死になった。それはしっかり三ツ谷にも伝わったのだろう。もう一度、おめでとうと言うと、彼は元居た場所に戻るのだった。
 入れ替わるように堅が数歩近づいてくる。
「今日は内示ってトコだ。後日第一王子から正式な通達があるからそのつもりでな。後のことは隊長の場地と、隊長補佐の一虎に聞いてくれ」
「……ぁぃ」
「千冬、おめでとう」
「うぅぅ……!」
 最後に仕上げとして場地の祝福を受けて、もう耐えられなかった。まさかこんなところで、この人数相手に泣き顔を晒すことになるなんて。少しだけ気恥ずかしい気持ちもあったけれど、今は喜びの感情でいっぱいだ。
「うわー、場地が新隊員泣かせたー」
「ウッセェ一虎ァ!」
 涙は止まらないのに、心は弾んでいる。千冬は何とか笑顔を作ると、もう一度感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。
「あざっス‼」
 拍手の音は、まだ響き続けていた。

これが本当の序章

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