黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉕

【二十五章】


 白い部屋の中で一人、頭を垂れている。
「千冬、頼む」
 目を覚ましてくれ。戻ってきてくれ。願うのは、一体何度目だろうか。数えていられないくらい、同じことを祈り続ける。
 このまま眠る彼を見つめ続けていたら、あの時のようにまた目覚めてくれるだろうか。
いや、違う。目を開けて欲しいのだ。このまま二度と、あの美しい瞳を見ることが叶わないとしたら。そう考えるだけで目の前が真っ暗になりそうなくらい恐ろしい。
 場地は、掛け布団から僅かに覗いている千冬の右手を取って強く握りしめた。その指先がひんやりとしていて、嫌でも伝わってくる冷たさがまた場地を焦らせる。どうか少しでも暖かくなって欲しいと思って、もう一度ぎゅっと握った。
「ごめん」
 絞り出すようにそう口にした。
 彼は今、愛するひとを永遠に失うその瀬戸際だ。



 羽宮一虎が目を覚ましたのは、東卍が打倒霧に向け出たその直後のことだった。
 意識を取り戻したのがこのタイミングであったことについては、果たして彼にとって良いことだったのか悪いことだったのかはわからないけれど。
 東卍の作戦は成功した。表向きにはトップ三人とも捕らえることができたもので、一番理想的な結果になった。尤も実態としては幹部二人が重傷という形に終わったわけで、それも味方であったはずの彼らが二人で相打ちしたようなものだから、東卍幹部にとっては複雑極まりない状況だけれど。
 しかも、唯一無傷で捕らえられたはずの№3である黒蛇が未だ口を割らず、その先が進んでいるわけではなかった。彼は、自身の上司が目覚めるまでは黙秘を貫くと言ったきりそれを守り抜いている。
そのおかげで他二人の目が開くまでは肝心のことが何も進展しないままだと思われた一連の真実だけれど、そのうちの一人についての謎が思わぬ形で紐解けていったのだった。
 一人。それは霧№2、黒猫について。
 それは、一虎の証言によるところが大きかった。
 ある日場地は、もうすっかり慣れた病室を訪れていた。いつかまでと違うのは、訪ねた先にいる人物の意識があること。それが何よりも嬉しい。
「一虎。もう起きて平気なのかよ?」
「場地じゃん。この前も言ったんだけど? 寝過ぎて飽きたくらいだよ」
「そりゃそっかァ」
「なー、なんか楽しい話ねぇの? リハビリ飽きた。やってらんねえよ」
「寝んのも飽きてリハビリも飽きたって……ゼータク言うんじゃねえ。いつまで経っても復帰しねえつもりかよ」
「そーだなー、看護師さん優しいし美人だしー、オレずっとここいよっかなー!」
 あ、でも飯は味気ねえわと続ける一虎があまりにも真剣で、場地は苦笑するしかなかった。こんな仕事をしていると当然そこそこ大きな怪我をすることもあって、そんなときは病院にお世話になることもあったから、彼の言いたいことはなんとなくわかってしまう。
「そんだけ話せりゃ元気だわな。もう来なくていーい?」
「うわ! 最低かよ!」
 軽口を叩きつつ、場地は口を大きく開けて笑う。数月ぶりに目覚めた友人を見舞いにいくのがここ最近の場地の楽しみだ。ずっとやりたくてできなかった何気ない会話をできていることがこんなに幸せだなんて、あの頃は思いもしなかった。
 そして、もう一つ。 
 今日ここを訪ねたのには、他にも目的があった。
 聞きたいことがあるのだ。
 談笑していたところから、少しだけ真面目な顔をして場地は話を切り出す。そんな場地の気配を感じたのか、一虎自身も笑っていたところからその口を閉ざしたのだった。
 一呼吸置くと、真剣な顔でこう尋ねる。
「ナァ、一虎。起きた時に言ってたこと。オレにも聞かせてくんねェ?」



 これは、数カ月前の話。一虎が自ら志願して霧に潜入していた時の事。順調に調べていっているはずだったのに、しまったと思った時には遅かった。
(これは、ボスの差し金か!)
 最初から潜伏に気づかれるのは時間の問題だと分かっていた。これまでいくつもの作戦を遂行してきたけれど、その経験が生きるかどうかが読めないのが霧という組織だった。この集団は、絶対に西領と繋がっている。それさえ、その情報さえ掴めればまずは充分と。そう考え、昨夜実行に移したのがもうバレたのか。
 一虎は、この時点で西領と霧の繋がりを握っていた。領主が霧の頭であるボスに宛てた書の一通を盗み出すことに成功していたのだ。これを持ち帰ることができれば、西領にとって霧が意味のある組織であると証明できると考えていた。
 けれど。
 東卍に戻ろう。そう思った一虎を待ち伏せる影が、ざっと十人。簡単に帰ることが叶わないと悟った。それでもすぐにやられるわけはないけれど、一虎の強さを持ってしても、体力を削られるばかりの状況にまで追い詰められたのだ。
「せっかく掴んだショウコ、残念だなァ?」
「クソ」
 ひらひら、振る手に握られた証拠。せっかくここまで辿り着いたのに、相手の手に戻ってしまった。
(こうなったら死んでもアレをマイキーに届けなきゃ)
 今の一虎の使命感はそれだけだ。東卍に、掴んだ証拠を持ち帰らなければ。たとえそれで死のうが知ったことはない。大切なのは、組織が勝利を掴むことなのだから。
 しかし絶望的な状況は加速するばかりで。
(クソ……!)
 焦りばかりが募ったその時だった。凛と通る声が、一虎の耳を掠めた。
「オマエら、何やってる?」
「黒猫!」
「ボスに言われて来たら……まだ終わってねぇの?」
「す、すんません」
(最悪だ、あいつは№2の黒猫……)
 ああ、ここまでかと思った。体力は限界。そこに現れた幹部。自分はここで殺されるのだと悟った。
(ごめん。真一郎くん、マイキー……場地)
 してしまったことの償いの気持ちでいたけれど、それすら果たせそうにはないのだ。心の中に思い浮かぶのは、仲間達。彼らに、心の底から申し訳ないと思う。
 一虎が覚悟を決める中で、黒猫は部下達に下がるよう言いつけていた。勢いよく頭を下げて去って行った彼らを見送ると、黒猫は一虎に向かい合った。
 こうなったら仕方ないと悟り、一虎は黒猫を睨みつけ言った。
「……ヤれよ」
 低くつぶやく声が、何処か遠くから聞こえてくるような、そんな感覚。
 いっそ一思いに殺してくれとさえ願ってしまうような、緊張感が張り詰めた。
 ——次の瞬間、黒猫の身体が動いた。いよいよ最期かと目を瞑ったその時。
「証拠を持ち帰らせてあげられなくて、すいません。行ってください。そして霧と西領が繋がっていると、突きつけてください」
 その言葉を理解するのに、時間が掛かった。
「……は? オマエ何言って」
「オレはこれからアンタを川に落としますけど。……どうか生きて」
 それを聞いた次の瞬間には、衝撃が走った。川に落とされたのだと悟る。
 一虎にとってはこれが、黒猫と交わした最後の言葉だった。



「オレは、黒猫に助けられた」
 呟くように、まるで言葉を落とすように一虎は言ったのだった。
内容はどうであれ、黒猫によって命を救われたことに間違いはなかった。てっきりとどめを刺されるかと思ったのに、彼は敵組織の幹部である一虎を逃がしたのだ。
「あいつが、一虎を助けた……」
 先日の事。先に報告で聞いていた事実が場地にはどうしても受け入れられなくて、だから今日こうして本人から直接話を聞きたかった。
「なんでオレの事逃がしてくれたのかは知らねえけど……」
「そっか」
「オレが寝てる間に、何があったんだよ?」
 彼の大きな瞳が場地を真っ直ぐ射抜いて、訝しげそうに揺れている。その視線が何だか居心地悪くて、思わず目を逸らした。一虎にとっては命の恩人になっている黒猫と、ここまで散々東卍を振り回してきた彼の事が場地の中ではイコールで結びつかないのだ。
 ……千冬となら、結び付くというのに。
「場地?」
「ッ、ああ、」
 思わず思考が飛んでいたようだ。名前を呼ばれてハッと気づく。
 場地はそのまま、この数か月間何が起こっていたのかを語り始めた。
 つっかえながら、行ったり来たりしながら語られるそれを、一虎は口も挟まずに聞いてくれた。ひと段落して場地が口を閉じると、ようやく疑問が返ってくる。
「千冬、って場地が言ってた子だよな」
「そうだよ」
「そいつが黒猫で、場地を裏切ったんだな」
「……ああ」
 人に話すことで尚更千冬がわからなくなっていく。何を理由に場地へ近づいてきたのか、わかったつもりになっていたところから、また振出しに戻っていく。
 一虎は、自分自身で確かめるように再び呟く。
「……確かに言われたんだ。生きて逃げろって」
「疑ってるわけじゃねえよ」
「うん」
 一虎は、そして場地は当然知るわけがないけれど、黒猫は霧にとっての誤算だった。
 最初から霧を裏切るつもりで動いていたのだから、当然のことだろう。あの日、一虎を襲ったのは黒猫ではなかった。とどめを刺すふりをして、逃がしたのだ。黒猫は番犬に、川へ逃げられたと言ったが、確かにそれについて間違いはなかった。単純に、殺す気がなかったことを言わなかっただけ。それだけのことなのだ。
「あいつは……一体何なんだ?」
 場地の中で、疑問がばかりが湧き上がっていく。
 裏切られたのだと思っていた。恋心を利用されたのだと。そう、ハニートラップを仕掛けられたと思って、そんなものに引っかかり、あまつさえ仲間にも迷惑をかけてしまった自分自身にさえ嫌気が差した。けれど、疑うにはあまりにも早いのではないかという気持ちもまだ、少しだけならあるのだ。
 場地にとって、今一虎に聞かされた話の方が、よほど場地の知っている千冬に近い人間像なのだった。
 そして、その違和感が確信に変わったのが、翌日の話だった。
 再び、集合を掛けられたその場で判明した衝撃の事実。
「……内通者が、千冬だった……?」
「西領に謀反の疑いがあるって情報を横流ししたのが、黒猫だったんだ」
「まさか。幹部が内通者なんて想像もしなかったっスね」
「さっき、確かめたいことがあったから病院に行ってきたんだ。何度か会った事があるから、間違いない。情報屋松野と黒猫、あと千冬は同一人物ってことが分かった。これまで黒猫の情報が一切なかったから気づけなかったけどな」
「黒龍全員、本人に一回は会った事があるから間違いねえ」
 真一郎によって伝えられた話は、場地を絶望させるにはあまりにも十分すぎる話だ。
 内通者が千冬であるならば、全ての辻褄は合う。一虎を霧から逃がしたことも、エマを助けたのが千冬であったことも。だって、霧を裏切るつもりが最初からあるなら、東卍にとって有利な動きをしてくれるに決まってる。
 あの日、組織に立ち入った日に部屋へ乗り込んだ時、二人ともかろうじて息をしている程度の酷い有様だったのだ。正直最悪の可能性だって考えられた。
 真一郎も同じことを考えていたらしい。
「それで? 現在の幹部二人の容体は?」
「依然意識不明が続いてるって聞いてます。カシラの方もなかなからしいっすけど、黒猫……いや、千冬の方がその、もとから出血した後に内臓やられたのが、酷かったみたいで」
 三ツ谷がちらりと場地の様子を伺いながら、そう告げた。あの日作戦中のそれぞれの行動は全て共有されている。場地が最初に黒猫を追い詰めて、その腕に深手を負わせたことだって当然全員が把握しているのだ。だからこそその気遣いがかえって、場地の心を突き刺す。
 知らなかったのだから、責められることはないだろう。むしろあの日の場地は正しい行動をした。傷を負わせるくらいはしないと、幹部を確保することは難しかっただろうから。あの日一番の目的は、彼らを捕えることだったのだ。中途半端なことでは、逃げられていた可能性だってある。
 しかし、見えてきた真実を前に、複雑な心境にならないほうが難しいだろう。
 それこそ、創設メンバー達はつい最近場地が私事で振り回されていた事すら知っているのだ。それが、生死さえ不明だった相手と長い時間を経て再会したという詳細さえ、見えている話。
 場地が何も言えない中で、同じく現場にいた万次郎と堅が説明している。
「オレらが見た感じだと、番犬襲ったのは千冬だと思う」
「最初は黒猫が番犬殺ったあとに自決でもしたのかと思ったけど、あれは番犬が最後の力振り絞って一矢報いたって感じだったな」
「とりあえず、死ななきゃ何でもいい。特に番犬にはさっさと起きて貰って、西領の事吐いて貰わねえとな」
「そーいや、西領の方は、国軍が動いてくれたんすよね?」
「おー。先に証拠上がって動けたんで、爺さんがやってくれた。西領はしばらくなんもできねえよ」
 それを聞いて、全員が安堵した。
本当に、ここまで長かった。敵が何をしようとしているかが見えているのに色々な制約に阻まれて、焦りだけが募っていった日々を思い返す。
 最悪の事態を迎える前に決着がついて、本当に良かった。
「……場地」
「……なんスか」
「松野、いや千冬は今回罪状に問われないはずだ。あいつの働きで、最悪の事態は防げたんだ。起きて情報は全部吐いて貰うからそれ次第だけどな」
「……そ、スか」
 気休めだとしても、安心する。きっと、真一郎だって場地を安心させるためにそう言ってくれたに違いない。
 そう話した翌日。
 場地は今日もまた、彼の病室を訪れるのだった。
 一虎の時と同じように、声を掛ける。
「千冬」
 病室を訪ねるたび、名前を呼んだ。当然返事は返ってくることはなく、掛布団が上下するだけ。それでも、彼がまだ生きているという事実が何よりも大切な事実だった。
 苦手な後処理事務に追われながら、それでもほぼ毎日彼の病室を訪れていた。それは、目覚めない彼へ心配の気持ちと、あの日傷つけてしまった事に対する後悔の気持ちがあるから。
「千冬の事、知ろうとしなかった。敵って決めつけちまった」
 確かに千冬はそう思われるように動いていたのだろうけれど、場地は彼を信じ切ることができなかったのだ。
 思い出すのは、腕の中で淡く微笑んだ千冬の表情。碧い瞳が閉じた瞼から零れ落ちた水滴が、その温かさがまだ忘れられない。

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