黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉔

【二十四章】


 敵の本拠地へ乗り込んだ場地の目標は番犬ではなかった。この組織のボスはきっとそれ以外の隊員がどうにかしてくれるだろうと考えている。場地の狙いは最初から黒猫で、彼だけを探して広い館内を駆け巡っていたのだ。
 今日憎き因縁の相手がこの館の中にいることは耳にしていた。場地の実力を見て怯えた敵側の構成員が、彼の存在を口にしたから。それも、数人から上がってきた情報なら間違いないだろう。進むごとに現れる敵達を上手く倒しながら、たった一人を目指して先を急いだ。
 そして、今漸く場地にとっての好機が訪れたのだ。
「見つけたぞ! 千冬ぅ!」 
 あの日、王都で会った時と同じ黒い髪をした男。愛していたはずのその感情は今や恨み、憎しみへと姿を変えていた。場地の姿を見て驚いたような顔をした彼が恨めしいとさえ思える。
「ば、じさん」
「ふざけんじゃねェ! テメー千冬を名乗りやがって!」
「……なんで今なんだよ」
「は?」
 黒猫が何か小さく悪態を吐いたらしいけれど、場地には聞き取れなかった。なんだろうと思う間に、黒猫の目が座ったように見えた。
 聞こえてきたのは、溜息。表現するとしたら、何言ってんだ、といったところ。
「あの、場地さん。名乗ったんじゃなくて、オレが千冬なんスけど。それとも、わざわざ説教しに来たんスか?」
「……テメーは確かに千冬だけど、千冬じゃねえ。あの日のテメーはどこに行ったんだよ」
「……何が言いてえんスか?」
「院が襲われたときに身体張って仲間守ったあれはどこ行きやがった?」
「ハハ、まさかここで昔話っスか? 場地さん……あれから何年経ってるって思ってるんスか。……オレがあれから何一つ変わってねえだろうとか思ってます?」
 黒猫こと千冬は、なぜか一瞬だけ寂しそうな顔をした。場地にはその真意なんてわからなかったけれど、まるで自分が悲劇の主人公であるかのような表情をされたことが無性に腹立たしくて仕方なかった。
 それと同時に感じたのは、高揚感。宿敵をこの手で漸く裁くことができるという喜びの感情が場地の身のうちを駆け巡る。上からは殺さず捕らえろと言われているが、これを相手にそうできる自信は正直あまり無い。
 その感情に素直に従って、場地は言った。
「テメーを殺す」
「……できるもんなら、どうぞ」
 それが戦いの合図だった。
 黒猫の返答を待たずに、場地は彼へ襲い掛かる。室内にいるのだから下手に武器を使うよりは体術の方が良いのは明白だった。しかし彼の手に短刀が握られているのを目視した場地は、舌打ちして自身も所持していたナイフを手にする。そして勢いを付けて切りかかった。
(クソ、こいつ強ェ!)
 黒猫の強さは予想以上だった。何度切りかかっても、掠める事すらできずに躱される。上から、横から、体術を仕掛けながら襲い掛かる。
(同じ動きしやがる、読めるはずなのに読めねえ!)
 そのうち気付いたのは、黒猫の体術もまた場地と同じ型をしていたという事。幼い日、千冬へ教えたその時のままなのだ。自分と同じであれば、動きや次のパターンがかえって読みやすいはずだった。それでも捕らえることができないのだから、それだけの実力を黒猫が持っているという事なのだ。
「オイテメー、ンで逃げてばっかなんだ?」
「……なにが言いたいんスか」
「オマエ、死んでも文句言わねえだろうなァ⁉︎」
「死んだら文句も言えませんけどねッ!」
「あー言やこー言いやがって!」
 もう一つ、気づいたこと。恐らく黒猫はこのまま場地を撒いて逃げようと考えているようだった。先ほどから場地の攻撃を受けては躱し続けているけれど、場地を襲ってはこないのだ。飛んでくる手から防御するだけ。当然のことだとは思いつつ、その行動にどこか違和感を覚えながらも思考だけは冷静になっていく。
 彼の動きの癖を、もう一度よく見る。どこへ攻め入れば当てられるか、そう考える。殺すことはしてはいけないというのが場地を動かしにくくしているのには間違いないけれど、ここで殺しては罪を償わせることもできないのだと考えて、なんとか自分を律しながら好機を伺う。
 それからどれほどの時間が経っただろうか。拮抗した力でやり合っているのだから、ここまで来たら持久戦のようなものだ。あからさまに呼吸を乱し始めた黒猫の様子を見て、場地はもうすぐ自分の勝利が確定するのだと悟った。
(このまま懐に入って地面へ転がす。手に持ってるナイフを落として、拘束する)
 そう決めて再び戦闘態勢に入ったその時だった。
「どけ!」
「⁉」
 先ほどまで一切反撃の様子を見せなかった黒猫が、急に場地へ向かって突進してきたのだ。思わず身構えて、逃がすものかとそう考える。
 次の瞬間。
 手に感じたのは、刃物が何かに確かに当たった感触。一瞬にして強く握っていたはずのそれが、宙を舞った。何が起きたのだろうか、場地の思考は一瞬停止した。
「……クソ、逃がした……⁉ ふざけやがって! オレはお前を殺す!」
 思考が戻ってきたとき、黒猫はもう場地の目の前にいなかった。
(アイツ切られるのわかって突っ込んできやがった……!)
 逃げるために、わざと怪我を覚悟で向かってきたのだろう。血の付いたナイフが床に転がっているのを目にして、場地は再びクソ、と叫んだのだった。



(……痛ェ)
 黒猫は急いでいた。今のこの混乱に乗じてやらなければいけないことがあって、時間を掛けるわけにはいかないのだ。そう思った矢先、彼に出会ってしまった。何とか撒くことはできただろうか。自分のホームであることが幸いして相手はまだ付いて来れていないと分かり、安心する。
 まさかあのタイミングで場地に会うなんて思ってもいなかったのだ。
 正直、今この時でなければ、千冬は彼に殺されても良いとさえ思っていた。でも、まだその瞬間ではない。
 体力が尽きれば確実に捕まるのが分かっていた。たとえ実力が拮抗していても、持久戦に持ち込まれたら正直勝てない。そう悟った瞬間に身体は動いていた。胴体でなければこの際切られても構わない、彼の手が届く範囲から逃げる、そう決めて全神経を働かせた結果が、左腕の負傷だったのだ。
 唯一の救いは、これくらいであればまだ致命傷にはならないという事。胴に刺さらなければいいと思ったけれど、上手く行く保証なんてどこにもない行動だった。うっかり身体に刺さっていたら、こんなに速く逃げることはできなかっただろう。それでも、勢いよく飛び込んだのだから重傷には違いない。少なくとも今日はもう、左腕は使い物にならないだろうから。
 その身体のまま向かうは、ボスの執務室。
 ここへ来るまでの長い道のりを思う。
「ボス!」
 叫んで飛び込む。
 彼の下に付いて数年。一度として四回のノックを怠ったことはなかった。でも、それはこれまでの話だ。
 だって千冬は、彼の部下ではないのだから。
 千冬が従いたいのは、今もこの先も場地圭介の信念だけ。
(今日ここで、こいつを殺す)
 そう。東卍の立ち入りをきっかけとして、彼を葬り去ることが千冬の目的だったのだ。
「黒猫? 随分いい格好じゃねえか」
 千冬が考えていることをまだ知らない番犬は、左腕から出血している彼を見てそう言った。言葉は軽く聞こえるが、その目は笑っていない。わかっていた。彼にとっての判断は強いか否かしかないのだから。今こうして傷ついている黒猫を見て、その力量を見定めようとしている。
 もう時間は残されていない。血を流したことで遠のきそうになる意識の中で、黒猫として最後の芝居を打つ。
「ボス、ここから逃げましょう。暫くどこか別の場所で身を隠さないと。あいつらに捕まったら、終わりっスよ」
「オレが、アイツら程度に負けるとでも言いたいのか?」
「違います、オレは体勢を立て直すべきと」
「ハ、冗談だよ。お前の言いたいことは分かる。そうだな、捕まったらこれまでのこと全部パアだ」
「さあ、はやく」
「もう少し証拠消してから出る予定だったんだがなあ。オマエのその様子じゃ時間ねえのも納得だ」
 これまでの実績がかろうじて彼の中の信用を損ねずに済んだらしい。
 薄く笑った彼が、真っ直ぐ扉へ向かって歩いていく。その動きがまるでスロー再生のように見えた。
 今だ、と叫んだ声が脳内で響く。実際は誰も叫んでなんていないけれど、千冬の中では確かに聞こえたのだ。
 その合図に合わせ、その背に向かって勢いを付けてナイフを突き刺したのだった。



「場地、幹部は⁉」
「悪ィ、さっき黒猫とやり合ったけど逃がした! 血が続いてるんだ。これを辿れば行けるぜ!」
 黒猫を探す場地がその後すぐに合流したのは万次郎と堅だった。総代表達自ら前線に立って動いていたのだ。彼らに聞かれたことへそう返すと、場地は血痕の続く道を進んで行く。わかりやすく落ちているわけではないから、探すのに少しだけ手間取っていたのだ。しかし三人も揃えば進みやすくなるだろう。
 それでも、少しの引っ掛かりはある。決してわかりやすい量ではなくても、血を辿られる可能性を考えない黒猫ではないはずだ。どこかで再びの違和感を覚えた場地ではあったけれど、今は慣れない思考をしている場合ではない。
「……この扉の奥に続いてるな」
 そうして辿り着いたのは、建物の奥だった。恐らく番犬のいる部屋だろうことが分かる。捕らえるべきその頭がこの先にいるかもしれないという状況に、三人は真剣な面持ちになった。万次郎が一度頷いて、突入を決意する。
 そうして重圧そうな扉を開けたその時。場地の心を掠めたのは、なぜか同衾したその夜に場地へ微笑んだ千冬の柔らかな表情だった。
 そんな訳の分からない思考は、万次郎によってすぐに引き戻される。
「……どういう状況だよ、コレ?」
 思わずと言ったように呟いた声が、耳に入ってきた。
「……オレに聞くな」
「まだ、少しだけ息があるな。番犬に死なれると都合が悪い。今すぐ医者連れてくぞ。ケンチン、頼めるか」
「ああ」
「カシラがやられたっていえば平隊員は降伏するだろう」
「そうだな」
「……黒猫がやったのか……?」
「わからない。でも、可能性は高い」
 場地達が目にしたもの。それは、霧№1と№2が双方大量の血を流して倒れている場面だった。何が起きたのかはわからないが、番犬が黒猫を刺し、黒猫が番犬を刺したとみて間違いない状況だ。霧幹部同士で何かあったのだろうか。東卍に追われ、やけになったとでもいうのだろうか。気になるのは山々だったが、本作戦は霧幹部を捕まえる事であって死なせるわけにはいかないというシナリオ。堅が番犬に止血を施しているのを横目で見ながら、場地はそのすぐ近くで倒れている黒猫にゆっくりと近づいた。追い詰めようと思っていた宿敵は、腕と腹から大量の血を流して雑巾のように床へ転がっていた。
 その身体に、触れたその時。
「ばじ、さん……」
 掠れた声が聞こえた。
「……なんだよ」
「ほんとう、に、ばじさん……?」
「だから、なんだ」
 どうやら、千冬に場地の声は届いていない様子だった。それでも自分の名を呼ばれたほうは聞かない訳にいかないだろう。イライラした気持ちのまま少し乱暴に体を起こして、言っていることを確かめようと働く。
「最期になんか言う事でもあるのかよ」
 問い詰めるように、ついきつい口調でそう尋ねる。まさかここで命乞いでもするのだろうか。散々なことをしておいて今更なんだというのだろう。そう勝手に考えて思わず乾いた笑い声が零れそうになったその時。
 場地の周辺から、音が消えた。正しくは、千冬の今にも息絶えそうな声だけが脳に響いたのだ。
 血濡れの右手が弱々しく場地へ伸ばされるのを、他人事のように見ることしかできない。
「ば、じさ、の、うで……なか、でしねる、おれ、しあわ……」
「……は?」
 乱れた呼吸の中で吐き出されていく音が、一つ一つ言葉になっていく。場地がそのピースを拾い集めて文脈として理解した頃には、伸ばされていたはずの手が重力に従って落ちていた。
 それきり、千冬は意識を失ってしまって何も言わない。閉じた瞼から零れた水滴がそのまま流れて、赤と混ざり合った。
 今彼は何と言っただろうか? 宿敵であるはずの男が、まるで自分の腕の中で死ねることに喜びを感じているような、そんな口ぶりだった。
「……どういうことだよ」
 血の気を失って青くなっていく顔を、ただただ眺めた。

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