黒猫は今宵壱等星の夢を見る㉑

【二十一章】


「……千冬」
 ああ、とんでもない勘違いをしていたのだと気づかされた。
 何より、最悪の過ちを犯したのだという事実に苛立ちが隠せない。
「あいつ、許さねえ」
 いや、勝手に信じたのは場地の方だ。十年という月日がどういう意味を持っているのか理解せず、かつて別れてしまった時の彼のままであると勝手に信用した末路がこれ。場地があの時の志のまま今を生きているから、彼だって同じなのだと、そう思ってしまったのだ。
 果たして好意を利用されたのだろうか。そうではないと、今尚信じたいと思っている気持ちが残っていることが悔しい。
 自分自身が事実を知らないうちにしてしまった事柄を並べていくたび、その感情は膨れ上がって行った。これが責任転嫁であると分かっていても、彼を恨まずにはいられない。
(オレは、いくつ東卍のことをしゃべっちまった?)
 思い返すと、始めは彼の方から尋ねてきたのだと気づく。せっかくこうして再会したのだから、空白の時間を埋めたくなるのは当然だと疑いもしなかった。
 場地さん今何をしているんですか、と、そう尋ねて来た時から彼はきっと、場地の口から東卍についての情報を得たがっていたのだろう。
(千冬が、黒猫)
 彼は、本当に黒猫なのだろうか。
 まだ、こう問いかけてくる心があった。黒猫が、千冬という存在について情報を得ていて、彼を偽って場地の前に現れたのではないか、と。
(オレはホンモノのバカなのか⁉ ここまできて、まだあいつがそうじゃねえって思いたいわけかよ⁉)
 たとえ策士には向かないとしても、こんな単純なことさえ理解できない自分に失望をする。
 千冬は産まれ付き金色の髪をしていた。それは、場地が一番知っていることだ。対して、黒猫についての正確な情報はひとつもない状況だったのだから、そもそも場地の中で、千冬が黒猫という図式を作れというほうが無理な話。まさか古い知り合いが自身の因縁の相手だなんて夢にも思わないけれど、だからこそ心の底ではまだ信じたくなってしまうのだ。アレは、千冬に似ているだけなのだと。だって、千冬はあんな夜の闇のような色をしていないだろうと。だから、想像さえできなかった。
 例えるなら、そう。
(あいつは、太陽みたいなやつだった……)
 ああ、なんという事だろう。これほど憎んでいるのに、それでもやはりまだ信じたくないのだ。千冬と黒猫が同一人物だなんて、そんなのはあり得ないと、心が叫んでいる。抱きしめた腕の中にいたのは、確かに千冬だ。十年探し続けた存在であって、場地が恋した彼自身だ。誰かが成り替わっているわけなんてない。
だからこそ黒猫に言われた言葉が反芻して、耐えられなくなる。あれは、間違いなく場地と一夜を過ごした千冬なのだと。違うと、否定したい心に現実がのしかかる。心の底から幸せだと感じたあの瞬間が、すべて否定されたのだから。
 そうして事実が結びついていくたびに、これまで奇跡だと思っていたことが緻密な計算に基づくものだったのだと気づかされる。
 そう、考えてみれば、エマを千冬が助けたというのもおかしな話だった。あの時はあまりの偶然に胸を高鳴らせて、再会できた喜びに浮かれてしまった。こんな奇跡が起きるのだとあの時は喜びに心が躍ったけれど、そんなことはあるはずがないのだ。唯一考えられることとして、最初から計画されていることであれば、話は変わるのだけれど。
 一度疑惑が立つと、続々と紐解けていくというもの。
 千冬は王都の辺境に住んでいると言っていたが、訪ねたいという場地を上手く躱し続けた。会うのはいつだって東京の中心地。そこは、即ち東卍の管轄内だ。霧幹部として、敵である東卍の情報を得るための口実だったのだと、気づいた時にはもう遅い。
「ああ、クソッ!」
 知らなかったし気づかなかった。一切何も。それが余計に、場地の心を荒立てる。
 忘れてはいけないことがある。黒猫は一虎を重傷に追い込んだのだ。今尚目覚めない親友の仇。その相手と知らなかったからと言って、付き合い、あまつさえ肉体関係まで結んだ自分の浅はかさに嫌気がさす。
 そしてその感情は、場地の中で黒く広がって行った。幸せが大きければ大きいほど、失った時の反動だって大きいものだ。
「殺す」
 低い呟きが、空間に響いた。
 この際、私怨と言われても構わないだろう。だって場地は好意を利用されていたことも、それに乗ってしまったことも、今となっては何もかも受け入れたくないのだから。


   
 真一郎から招集があったのはその翌日のこと。姿を見せた場地を、万次郎と堅がいつもの様子で揶揄った。
「アレ、場地今日も早いんだ」
「オマエは真一郎君からの招集があった時だけは早いのな」
「……うるせェ。殺すぞ」
「殺気立ってんじゃん。なに、千冬と別れたの?」
「あんなクソ野郎知らねェよ‼︎」
「……何があった?」
 朝が早い時と、なかなか休憩に辿り着けない時の場地はほどほどに面倒なことを仲間達は知っている。虫の居所が悪かったのか何の前触れもなく部下を殴ったことがあって、たまたま近くを通った三ツ谷に窘められた、なんてことも以前にあった。普段は好き嫌いがはっきりしていて単純そうに見られているのか、たまに起こす突飛な行動がかえって何を考えているかわからないなんて言われることもあるくらいに。
 それでも、今日は常とまたさらに様子が違うらしいことを堅は敏感に感じたようだ。
「場地?」
しかし、疑問の気持ちを込めても場地は舌打ちしたきり何も答えなかった。
 だって、言いたくない。場地のプライドが、好いた相手に裏切られたという事実について話すことを拒んだ。
 休日になるたびに会っている相手がいると知った仲間達は、どうやら彼に春が来たらしいと持ち前の好奇心で場地を探った。そしてその相手がずっと探していた千冬であると知った時。揶揄いながらも祝福してくれたのだ。そんな彼らに付き合い始めたことを暴露したのだって、つい最近の話。
 何も答えなかったけれど、沈黙は時に何よりも肯定となる物だ。
 堅は、溜息を吐いた。
「場地、切り替えろとは言わねえけど、こっから正念場ってこと忘れんなよ」
「ア? テメー喧嘩売ってんのか?」
「あー、ドラケン。やめとけや。こいつに今何言っても聞かねえよ」
「三ツ谷ぁ、テメーもな」
 場地だって仲間に当たったってどうしようもないことくらい、わかっているのだろう。それでも、名前さえ聞きたくないのだから仕方ない。それくらい彼に向けた恨みは深い。
 そんな様子で少し重たくなった空気を打ち破るように、真一郎がやって来た。ぐるりと見渡して、一人一人の顔を確かめるようにして。全員が揃っていることを確かめるのだった。
「お、全員集まってんな」
「真一郎君! お疲れ様っス!」
「ハハ、そういう固いのいらねえって言ってんだろ」
「なー、真一郎。今日長ぇの?」
「……万次郎。オマエはもう少しオレを敬え」
 この場に創設メンバー以外の隊員がいたら、きっとマイキーと呼ばれていただろうけれど。緊張感の一切ない弟へ、ふ、と柔らかく笑った真一郎だったが、次の瞬間には引き締まった面持ちになる。それを察して、一同も背筋を伸ばした。
「……情報が入った。霧が動くぞ」
 その言葉に、場が固まる。まず口を開いたのは、林田だった。言われた言葉を飲み込めていない、困惑した様子。
「動くって、どういう……」
「情報屋から入った話だと、西領主は来週にも西領軍ほとんどの実権を霧に譲渡するはずってさ」
 今度は、動揺が走る。
「西領はまだ、霧を認めていなかったはずじゃねえんスか⁉」
「なんかしら状況が変わったんだろうな。この前エマの一件があったが、アレにまた霧の黒猫が絡んでるって話だ」
「……王女助けたのに関わってるから功績を称えるとか、そういう事っスか」
「三ツ谷の言う通りだろうよ。国が動かなくても、領民としてなら認められるとかそういう辻褄合わせじゃねえかってそいつは言ってた」
 答えたのは、真一郎の隣に控えた男だった。軍神と異名を持つ、真一郎の側近。すぐさま堅が反応する。
「エマの一件、やっぱ自作自演だったってことか?」
「んー、最初はその可能性が高いと思ってたが、そうじゃねえみたいだ」
 情報屋曰く、霧にとってもあの一件は想定外だったという情報らしい。しかし結果的には彼らにとって良い方に進んだのは事実だ。霧の頭はこういった状況を利用することに長けているのだろう。
「その情報屋、結構霧に詳しいんスね」
「元々西領の地下社会渡ってきたような奴って言ってたからな。伝手はめちゃくちゃあるんだろうよ」
「霧が軍の実権を握ったからつってもすぐ脅威になるわけじゃあない。が、逆にいつ何が起こるかもわかんねえってとこだな」
 ある意味ではパッと出の霧に指示されることになる西領軍が受け入れるか否かは別問題。統率が取れるようになるまでは時間が掛かるだろうと見ているのが、決して気休めではありませんようにと願うばかりだ。
「……向こうが動くまで、待つしかねえんスか」
「正直、それしかねえだろうなって思ってる」
「……東卍に、守り固めとけって言いたいワケ?」
「殺気出すなよ、万次郎。お前の気持ちはわかるし、オレだって動くなって言いたくねえよ。でも乗り込む理由だって今はないんだぜ」
 結局のところは、ここなのだ。情報だけ手に入っても西領が本当に謀反を起こすという証拠が出ているわけではない。今のままだと、そもそも公式の軍ではない組織が不正確な情報で勝手に動いた挙句、西領に損害を与えたなんて言われてもおかしくないのだ。
 思わず、全員が口を閉ざした。ほぼ間違いない事なのに、指を食わえて様子を伺うしかないなんて。その気持ちだけが共通認識だ。 
 不意に、ここまでずっと押し黙っていた場地が口を開いた。
「……千冬が、黒猫だった」
「……は?」
 呟くように落とした言葉に、再び場が凍りついたのを感じる。正体不明と言われ続けてきた男だ。それを今、何と言ったのか。
「オイ場地、それってどういうことだよ? 千冬って……最近付き合い始めたって言ってたよな? ……昔行方不明になったお前の昔の知り合いだろ? 商人見習いって言ってたじゃねえか。偽者だったってことか?」
 珍しく畳みかけるような質問を投げてくる堅の視線から逃れるように、場地は俯いた。彼の脳内ではきっと、黒猫が千冬を偽って場地に近づいたという図式が成り立っていたのだろう。しかし、場地はそれを即座に否定する。
「嘘だったんだ。アイツは黒猫で、最初からオレの情報取るために近づいてきた」
「……は?」
「利用された」
 懺悔するように低い声で、呟くようにそう口にする。認めたくなかったし口にしたくなかった現実だ。言ってしまえば、もうこれが何かの間違いと言えなくなってしまうような気がしたから。それでも、何より大切な仲間達へいつまでも隠しておくことの方が耐えられなかった。場地は追い求め続けてきた存在を信用しすぎた挙句、利用をされたのだと、そう認めた。
「絶対ェオレから聞いた東卍の情報を西領に流しやがったんだ。だから黒猫は認められて、それで」
 場地は本来、参謀的なことは苦手だ。推測を巡らしていくのは自分の仕事ではないと思っていた。けれど、今回ばかりは誰よりも良く分かる。彼の用意周到さと、決めたことは完璧に遂行するということを、一番理解していた。
 だから想像が付いた。黒猫は、西領主にこの情報を持っていったのだと。それが最終的には、霧が西軍実権を握らせる手助けになってしまったのだろう。
「……オレの、せいだ」
 深く頭を下げた。
 そうした瞬間に押し寄せてきたのは申し訳なさと、不甲斐なさ。全ての感情がない交ぜになる。
 焦ったのは仲間達だ。
「よせよ場地、オマエらしくねえじゃん」
「オマエ悪くねえよ」
「そんなの場地のせいじゃねえだろ」
 創設メンバーは場地がずっと一人の存在を忘れられずにいることに気づいていた。ふとした時に落とす影に気づかないはずがなかったのだ。詳細な話をしなくても、感じることは多々あったはずなのだから。その糸が今日こうして繋がったからこそ、そう言ってくれる。
 そうして、最後に励ましをくれたのは当然この男だ。
「場地。この際、数日黙ってたことは許してやる。言いたくなかったワケも何となくわかるからな。でも、良く言ってくれた」
 万次郎が、意思のはっきりした眼差しを向けてそう言った。
 そんな彼と視線がぶつかって、有難いと思う気持ちと、こんな屈辱的なことがあってたまるだろうかという気持ちがせめぎ合った。
 誰一人として、場地を責めないのだ。せめてもっと罵ってくれればよかったのにと、そう思う。幹部の自覚がないと言われたって仕方ないことだと思っていた。
 だからこそ。誰にも負の感情をぶつけられなかったからこそ。湧き上がるのは怒り。全ては大きすぎる運命を背負うことになった幼馴染達と、共にこの国を守る大切な仲間達のためだ。場地は再び、東卍のためにも霧を、そして黒猫を打たなければならないと誓うのだった。



(場地さん)
 寝ても覚めても彼に関連することを考えてきたのは、これまでとも変わりなかった。それでも、何かがこれまでとは違った。かつて二度と出会えなくてもよいと思っていた時よりも、今の方がよほど辛いと感じてしまうのは、何故だろう。
(そんなの分かりきってる)
 心も身体も、何もかも捧げた相手に本気の殺意を向けられたのだから。
 そうなるように仕向けたのは自分自身だったけれど。それでも彼の口から紡がれた言葉に、心を抉られたのは事実だった。
 けれどあの日の黒猫に自身の身を明かす以外の選択肢はなかった。
 理由は単純。彼と別れる数日前に飛び込んできた話に突き動かされた。
(西領が、動いた)
 かねてよりボスが悲願としていた、西領軍の実権を握るという計画。これに漸く漕ぎつけたのだとの連絡を受けた。だからもう、彼と共に居ることはできないとそう思ったのだ。
 西領に戻らなければ。戻って、やらなければならないことがある。
(証拠は、揃えてきた)
 心の中で間もなく計画を進めれることに歓喜したけれど、それを実行へ移すのはあまりにも無謀なことだった。
 それでも今、自分自身に誓う。
「オレは、ボスをやる」
 なぜなら、今日まで組織の首を落とすと誓って生きてきたのだから。
 たかが五年、されど五年だ。ずっと、この日のために水面下で動いてきた。心を殺し偽りを吐き続けた日々を思う。全てはこの国の未来の、そして愛しい彼のために他ならなかった。
 これで良いと思うのは、この命はあの日彼に貰ったものだという確信があるから。だからこそ、彼の守る世界を保つためにその手伝いという自己満足を果たすのだ。
(無事じゃ、すまねえのはわかってんだ。でももう、悔いもない)
 ボスは恐ろしい人物だ。彼を消すためには、良くて相打ちと言ったところだろうと考えている。
それでも構わなかった。たとえこの結果で自身が死ぬことがあったって、もう誰かが悲しむことはないのだから。
(やりたいことは、全部やった)
 彼にとってはきっともう忘れ去ってしまいたいだろうけれど、あの温かい腕の中で眠ることができた一夜は心の底から幸せだった。長い時間ずっと一人で生きてきて、あの夜だけ感じることのできた幸福という名のぬくもり。この幸いがあればもう他に何もいらないと、そう思うことができるくらいに。
(今は、眠ろう)
一人きりの夜なんて、これまで幾つも超えてきた。今夜もまた、その一つに過ぎないだろう。
 そんなありふれたはずの夜だけど、瞼の裏に浮かぶのは。
(場地さんは、一等星だ)
 あの日見た星のように真っ直ぐ輝く存在。
 どうかあと一度だけ、夢でいいから逢いたいなんて。そんなこと願ってはいけないはずなのに、望みを抱いてしまう。千冬の意識は頬を伝った一筋の涙と共に落ちていったのだった。

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