黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑯

【十六章】


 何の運命か、場地と再会を果たした千冬は困っていた。
 まさかあんな形で彼と会うことになるなんて想像もしていなかったのだ。
(確かに、王女を助けたのをきっかけに場地さんに近づいて、東卍の内情を探る計画ではあったけど)
 あの場で出会うとは思っていなかった。まさか、エマを救出するため派遣された隊員の中に場地がいるなんて。
 そして、思ってもいなかったことは他にも。
「千冬は酒……はまだダメか」
「すいません、来年十八になれば飲めるんスけどね」
 この国の成人年齢は十八歳。酒の解禁年齢も同様だったりする。
「ちゃんと守ってンの偉いじゃねェか。オレなんて正直十五から飲んじまってたワ」
 こーゆーふうに外では飲んでねェけどなと、場地は慌てて続けた。彼の立場的には色々見聞もあるだろうから、少し焦った表情なのが面白くて、千冬は思わず笑う。ああ、場地さんは変わらない、と心の内まで暖かくなってくる。
 千冬だって本当はとっくの昔に酒の味を知っていた。なにせ酒場で仕事をしていたこともあるような人生だったのだから。勿論そんなことを場地に言ったりはできないから、あくまで品行方正に生きてきたように取り繕うのだけれど。
「場地さんは、ご実家の付き合いとかもありそうですもんね」
「そーなんだよなァ」
 彼の家系を考えれば充分にあり得る話。尤も場地の場合は周りの環境もあって好奇心が動くままに、という可能性の方が高そうだけれど。
 片方はワイン、もう片方はジュースで再会の乾杯をした。どちらも葡萄で同じような色だから、うっかり杯を取り間違えてしまいそうだな、なんて思ったり。
「場地さんは、今軍にいるんですか?」
 自然に、問いかける。
 場地は千冬から尋ねられたままに、千冬がいなくなった後の話を聞かせてくれた。はじめは国軍に入るため訓練校へ通った事、無事卒業したが諸事情あって国軍には所属せず、今は第一王子付きの準兵組織の一隊を任されていること。
 聞けば聞くほど素晴らしい功績を淡々と、驕ったりせず事実だからと述べる謙虚さまでもが格好良いと思ってしまうのだから、重症だ。
(知ってます)
 そんな彼の話に耳を傾けながら、心の中でそう呟く。誰よりも、知っていた。
 場地は千冬の正体が黒猫であることを知らない。今きっと彼が憎しみを抱いて追っているであろう、その存在であることを知らない。だからと言って、問われるがままにこんなに大事な情報を千冬に渡していいのだろうかとつい不安になった。しかし同時に、彼の辿ってきたこの十年という年月を、本人の口から語ってもらえるという幸福感にも浸っていたいのだった。
 それにしてもまさか、こうして二人で杯を交わす日が来るだなんて、と千冬は不思議な気分だ。この際片方が酒でないことは、置いておいて。
 さて、話は先日に遡る。
 場地のもとに、千冬が現れたその時の話だ。
 千冬と場地の視線が、十年ぶりに重なったその時。
「……オマエ、どうして」
「……その、オレ、彼女に声をかけられて」
 演じられているだろうか? 千冬は脳内で自分自身に問いかけた。声が震えてしまったのは、偶然昔の知り合いに出会った感動のせいだと言い訳をしたい。
「えっとオレ、別の街から出張来てて、それで声かけられて」
 偶然この街に滞在する予定があったこと。今日の宿を探そうなんて思っていたところで、女性に声をかけられたこと。切羽詰まった様子にただならない何かを感じて人を呼んだこと。そして話を聞いたらこの国の王女だというから、再び混乱していること……。
 たどたどしく、それでも丁寧に。
 さすがにこれだけ話せば場地にも状況を理解してもらえるだろう。後は驚いてしまってよく覚えていないことを匂わせると、その場にいた全員が納得してくれたらしい。彼女に出会ったことは本当のことだし、問題ないだろう。
「……オマエの話だと、犯人の野郎どもはまだあっちにいるんだな?」
「は、い、エマ……様によれば、そのはずですが……」
 わかった、ちょっと待ってろ、そう言って場地は近くにいた部下を呼びつけると、行って捕まえてこいと指示を出したのだった。ハイわかりましたと足早に出ていく様子を目で追う。場地に待っていろと言われては、千冬はその通りにするしかない。
 あの後場地が再び千冬に声を掛けるまで、一体どれほどの間沈黙しただろうか。
 正直なところ千冬は数年ぶりに緊張するという感覚を味わっていて、考える余裕なんて全くなかったのだけれど。記憶力に関してはほどほどに自信があったはずなのに、彼の前では全く役に立たなくなるものだから不思議だ。
 そうして様々なことが落ち着いて、固い声色で千冬と呼ばれて。
 真剣な表情に何を言わるのかと身構えたら、どうか別の日に違う状況でもう一度会いたいのだと言われて。
今日を迎えたのだった。
「なー、その、今どこ住んでンの」
 杯を傾けながら、場地が問いかけてくる声で千冬は思考が先日に戻っていたことに気づいた。
 当然のことながら西領にいるだなんて言えるわけがなかったから、予め用意していた回答をすらすらと答える。
「東京の端っこで今は動物の世話してます。郊外なんで、王都とはいえド田舎っすけどね」
 場地に嘘を吐くのは心が痛んだけれど、本当の話をする方がよっぽどできない事。作られた経歴を語る。間違っても、国政に絡むような話とそれに近い話など彼に聞かせるわけにはいかない。
 そんな千冬の心配事なんて露知らず、場地はキラキラした目を千冬へ向けてきた。そうだ、彼は動物が好きだったんだと思い出した。
「へー! 動物ってどんな? 飼育とか?」
「えっと、犬とか猫の、世話とか販売もしてます」
「いーじゃん。めちゃくちゃ似合うワ」
 似合う、そう言われて思わず千冬は微笑んだ。実際は汚れ仕事だって何でもやるような人間なのに。そんなことを一切知らない場地は、かつて可愛がっていた千冬少年の延長線上で、今の千冬も見ている。その事実が何だか新鮮だったのだ。
 千冬が歩んできた人生は、決して楽なものではなかった。犬や猫に囲まれる生活なんて今更望めない。でも場地の中では、千冬が話した嘘の経歴が似合うというのだ。
「この前は、子犬引き受ける仕事があって……出張で行ってたんですよ」
 つい、辻褄合わせをするようなことまで語ってしまう。どうしたらあの日あの場所にいることになるのか、本当のことなんて話せないというのに。
 今日の待ち合わせ場所は、王都の中央にある店だった。外れに住んでいるはずの千冬がなぜ王宮にほど近い中央を訪れているのかは、犬猫の餌を仕入れるためだと伝えている。中央でしか取り扱いのない商品を仕入れ、自身が暮らす街で販売しているのだと、そういう事にしているのだ。
 場地へ語った経歴の千冬は都境の街に住む商人見習いという事になっている。幼いあの日、あの事件があった後に移り育った院を出た後、今勤めている店で見習いとして勤めるようになったのだと。店主は少々変わり者で、遠出をするのを嫌がるからフットワークの軽い千冬は頼まれるがままに働いているのだと、そういう事になっている。
 こんな嘘でも少しの間なら、誤魔化せるだろう。
 それが難しいならもう二度と会わないと決めて、次の約束の日、待ち合せの場に行かなければ良いのだ。
 それでも、千冬の脳裏には再会したその時の光景が浮かぶ。場地はどうかもう一度会う機会をくれと千冬にお願いをした。その必死な表情を見て、別れが惜しいと思ってしまったのだ。そしてその別れが惜しいと思った感情を、彼に近づけば目的が果たせると都合よく考え直して誤魔化した。
 そして言われるがままの約束を取り付けて訪れた当日。待ち合わせ場所に現れた千冬を見て、彼は心の底から幸せだという顔をしたのだ。
 あれを見てしまって、千冬に断れるはずなんてない。
「こっちにはよく来んの」
「そ……、すね、まあ割と……。仕入れ先が、あるんで……」
「そっか」
「あの、場地さん……?」
 色素の薄い茶色い瞳に、じっと見つめられている。その目力に、千冬はつい戸惑ってしまった。そして彼から吐き出された言葉は、千冬の心を痛ませるには充分で。
「なあ、ならなんで会いに来てくれなかったの」
 ほんの一瞬、時が止まった気がした。
「えっと、それは」
 上手い理由を付けて誤魔化さなければ。そう思ったのに、口から何も出て来ない。
誤魔化す理由が見当たらなかったわけではない。本音を隠して事実と異なることを口にするのは得意だったはずだ。
 それなのに。
「……場地さん、すっかり遠い人になっちまって、もうオレなんかが会えるような、そんな人じゃないと思って」
 気づいた時には本当のことを語ってしまったのだから千冬自身が一番驚いてしまう。勿論、どうして遠い存在だと思うようになったのか、その理由については何があっても口にできない。それくらいの理性は残っていたけれど、千冬の心はどうしても、彼に嘘を吐いて誤魔化したくないとそう叫んだのだ。
 テーブルには、沈黙が落ちた。本音を語ることになった千冬は、何故か死刑宣告を待つような気持ちになっていて、これ以上口を開くことができない。場地が何も言ってこない限りはずっとこのままだろう。
 けれど永遠に続くかと思ったその沈黙は、案外すぐに解かれたのだけれど。
「千冬ぅ」
「……はい」
「オレは、ずっと会いたかったぜ」
「っ」
 会いたかった。ストレートな言葉に思わず返答が詰まる。
 そんな千冬の心情なんてお構いなしに、場地の告白は続く。
「あんな別れ方しちまってさ、千冬が生きてるかどうかもわかンなくて、ずっと不安だったんだよな」
「場地さん、場地さん、すいませんでした、すいません」
「馬鹿野郎、別に謝って欲しいわけじゃねェよ」
 すいません、言いながら自然と頭が下がっていく。千冬には千冬の事情があって、長い間自分の存在を場地に知らせることができなかったけれど、優しい彼のことだから急にいなくなってしまった千冬のことを気にかけ、心に傷を負っていたかもしれない。
 その可能性に気づくことができていなかったのだから。
 それでもかつてと変わらない優しい声色が返ってくるものだから、少しだけ怯えるように場地の表情を伺い見た。
 この時に千冬にはわかったことがある。
 そう、彼が千冬のことを大事に想ってくれているのだと知ったのだ。病室で抱きしめてくれたあの時から今尚彼の心は変わっていないのだと。
 そして、全く違う事を考える。多幸感と絶望が合わさった時、人は一体どうしたら良いのだろうか、と。
 確かに千冬は嬉しかった。自分という存在を、他ならぬ彼が覚えてくれていたこと。あの幼い日々の記憶を大切にしてくれていたことが。
 それに対してじわじわと千冬を蝕む、罪悪感にも似た何か。言語化できないそれが、まるで千冬を背後から襲おうとしているかのような、そんな感覚が芽生えてくる。
 そんな千冬の事情も、そして心情も知らない場地は、変わらず優しい瞳を向けてくるのだから心臓が激しく脈打って仕方ない。一体、どうしてしまったのだろうか。常であれば感情のコントロールなんて、問題なくできるはずなのに。
「千冬が元気でいてくれて、オレすっげえ嬉しいワ」
 ああ駄目だ、と千冬は思った。
 ずっと、これだけは気づいたらいけないと心にストップをかけてきたことがある。心の底ではきっと薄々気づいていたけれど、脳が自覚したら終わってしまうと、そう思っていたことが。
 でももう、抑える方が難しいとそう気づいてしまった。
(場地さんのことが、好きだ)
 彼の目指すものに少しでも力になりたくて、そのために生きてきた。
 それが別に彼に知られることがなくても良かったし、彼が活躍している事実があるだけで、もうそれ以上何も望まないと思って生きてきたのに。
 それなのに、求めてしまうのはそれ以外の私情、否劣情だ。
 千冬の心の中でも、特に柔らかい部分。そこから芽生えてしまった感情が、押さえきれずに叫び声を上げる。
 ただ好きなだけならまだ戻って来れたかもしれない。蓋を閉めて、なかったことにできたかもしれない。けれど、それだけでは足りないのだ。
 だって千冬の願いはもっと重たくて、暗い色をしたものだと気づいてしまった。
 ただ見つめるだけでは、もう耐えられない。遠くから見ているだけでは、足りない。彼に千冬と同じ感情を持って欲しいと、そう願ってしまう。彼に触れられたい、触れたい。ドロドロした感情は決して綺麗なものではなく、自分以外の人物へ一方的に身勝手な感情を望んでしまうものだと気づいてしまった。人の心を、己がままに操りたいと願ってしまった。そう、彼の心まで手に入れたいと、今の立場では絶対に望んではいけないことを願ってしまった。
(場地さん、好きになっちまった……。いや、違う、ずっと好きだった……あの人が、欲しい)
 考えてはいけない事ばかり浮かぶ頭を、必死で振った。それなのに、消えるどころか大きくなってしまう感情を一体どうしたら良いと言うのだろうか。

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