黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑮

【十五章】


 早くここから逃げなければ。見つかったらどんな目に合うかわからないから。
 焦りだけが募っていく中、エマは必死で真っ暗な道を走っていた。遠くの方、僅かに見える明かりがどうか人里でありますようにと願いながら。
 その日エマは、公務のため王宮外へ出ていた。関東国王家佐野一族の王女として、街の視察へと訪れる予定だったのだ。正直なところ大人しくしていないといけないのは得意じゃないし、気乗りしないな、なんて思ってもいたのだけれど。今思うとそんな我儘を少しでも想像したからこんな目にあってしまったのではないかとさえ、思えてくる。
 朝一、太陽が上がると同時に王都を出て、お昼過ぎには到着をする予定だった。
 長い旅を終え間もなく目的地へ辿り着く。事件が起こったのは、そんな時のこと。
(急に馬車が囲まれて、それで)
 思い出してもたったそれだけ。後はあっという間だった。護衛は何人もいたというのに、相手は容赦せずに彼らを襲った。殺されると震えた想像が当たらなかっただけでも奇跡だったのだろうか。結果的にエマは目隠しをされ、腕を縛られて。馬車の騎手が脅されながら目的地とは異なる場所へ進むよう指示されているのが聞こえてきたときは一体どうなってしまうのかと、何も考えることができなくなった。この状況で、怖い以外の感情が浮かぶはずもないのだけれど、身体の芯が冷えていく感覚を生まれて初めて味わうことになってしまった。
 そうして何が起きているか一切わからないまま、到着した先は寂れた廃墟のようだった。少なくとも普段から使われているとしたらあまりにも寂しすぎる空間。調度品は一切なくて、到着早々縛り付けられた椅子も所々塗装が剥げている有様。
 目隠しを取られた時、恐怖で涙を零していたことを初めて自覚した。もし鏡でその時の表情を見ることができていたら。きっとその顔が真っ青になっているのが見えたことだろう。
 身体の芯から震えるエマに、彼女を拉致したであろう組織のリーダーらしき男が語ったのは、エマを人質に王家から身代金を取るという計画だった。
 尤も計画を聞かされたところでそうですかと答えられるわけなんてなくて。もう何度目かの絶望をするしかなかった。
「東卍はいつ来るんだよ」
「取引場所送ったのは昼過ぎだから、これからだろ。朝になんなきゃ着かねえよ」
 そんな会話がエマの目の前で繰り広げられてから、何時間経っただろうか。
(おじいちゃん、真兄、マイキー……ケンちゃん……)
 お願い、助けてと願うことしかできない時間が過ぎていく。
 部屋には小さな窓があって、先ほどまでは見えていたはずの空がいつの間にか暗くなっていたから、今が夜になっていることだけは理解できた。尤も実感としてはもうここへ来て何日も経っているような気持ちだけれど。
 ぽたりぽたりとエマの瞳から涙が零れる間にも、もし東卍が来なかったら、取引を拒否されたらと向こうは話を辞めない。
「まあ、もし交渉が決裂するならその時は」
 死んでもらうしかない。笑いながら、まるで聞かせるようにそう言ってくる男達が本当に恐ろしくて、ただただ泣くことしかできなかった。エマと共にここへ連れてこられた護衛達が数人いたはずなのに、同じ部屋にいないのがまた不安感を煽っていく。あの人達は無事なのと、聞きたくても口を塞がれてしまっているから叶わなかった。
 そこからまた何時間が経過しただろうか。人間涙を流し過ぎると、感情が遠くへ行ってしまうらしい。相変わらず犯人達は何かを話しているけれど、もうそれが言葉として入ってこないくらいに、心は追い込まれていた。絶対に助けてくれる、そう信じる気持ちにも限界が出てくる。
 それでも希望は失われていなかった。もう一生このままかもしれない、なんて思ってしまったその時。
「敵襲だ!」
「⁉」
 エマが監禁されていた部屋の扉が壊されたのは、叫ぶ声と同時だった。
 そこからは一瞬だった。彼女を捕えていた男達が、目の前で倒されて行って。ほんの少しだけ心に余裕が生まれてくる。
(東卍が来てくれた……?)
 そう思って喜んだエマだったが、喜色の感情は一瞬だけだった。すぐに湧き上がってきたのは疑問。その疑問が、再び不安を煽ってきた。十人ほどいる彼らの顔を見ても、知っている人が誰もいないのだ。兄が代表を務める組織、想い人の所属している組織。兵集団なんてものお前は気にしなくていいの、という一つ年上の兄の意見で正直に言うとその実態についてはあまり知らないけれど、幹部クラスであれば知った顔もそれなりにはいる。そのはずなのに、その気配が全くないのだ。
 何よりも、男達の服装は彼らが揃って着ているいつもの黒を基調とした服装ではない。あの服が仲間の証であり誇りでもあるのだと語った兄の笑顔を思い出した。
(誰……?)
 やっと解放されたはずの恐怖心が、結局また競りあがってくる。
 一切掴めない状況に混乱しているうちに、犯行グループは全員倒されていたらしい。うめき声一つ聞こえないから、完全に意識を失っているようだ。……さすがに命までは奪われていないと信じたいが、戦いに疎いエマには彼らの身がどうなったのかわかるわけがない。
 そんなことを考えるうちに、形としてはエマを助けに来てくれた人物の一人がエマへゆっくり近寄って来た。それでも相変わらずその人物の素性が分からないままだから、思わず身体を固くする。しかし彼はそんなエマの行動なんてお見通しというように自然に寄ってくると、エマを縛っていた縄と、猿轡を取ってくれた。
 当然抵抗なんてできないエマは、されるがままだ。
「貴方たちは、一体……」
 約半日ぶりに出した声は掠れていて今すぐにでも咳き込んでしまいそうだったけれど、なんとか尋ねた。長い時間水分さえ取れていない喉が悲鳴を上げている。
「説明している時間はねえな。いーか王女サマ、この建物を出てまっすぐ走ると街があるからそこまで行け。誰かしらいるから助けを呼べよ」
「え……?」
「早くしないと、こいつら起きるぞ。オレらの気分だっていつ変わるかわかんねえしな」
「に、逃がしてくれるなら、護衛の、人たちも……」
「それは今仲間がやっている。いいから、はやく出て行ってくれ。オレらはこいつらに大きな借りがあるんでね。無関係のやつらは邪魔なんだよ」
 ここにいるとお前まで刺しかねない、なんて物騒なことを言われたら自然と足は出口へ向かっていた。ひたすら急かされて、そうするしかない状況。もう訳が分からなくて、言われる通りにするしかなかった。
 そこで、冒頭。
 男性が言っていた言葉がエマの中で駆け巡る。いつ気づかれるか。いつ追いつかれるか。彼らは完全に意識を失っていたはずだ。でも、助けに来てくれたと思っていた人達の気が本当に変わってしまって、エマを連れ戻しに来たら? そんな不安に駆られながら、必死で人のいる場所を求め、走った。息が乱れて、苦しい。足がもつれて何度か転んだ。明かりは見えるはずなのに、一向に近づく気配がない。
 一体どこまで走り続けなければいけないのだろう。ただただ、心細くて。
 そして永遠に続くかと思った時間と、道が終わりかけたその時。
(人がいる……!)
 ここの住人だろうか、人影を見てエマは漸くの安堵をした。その安堵のまま、声の限り叫んだ。喉の痛みは耐えられないくらいになっていたけれど、最後の力を振り絞る。
「すみません……!」
 そう叫んで、見つけた人物に駆け寄った。僅かな街の明かりでもわかるくらい髪色は明るいが、見たところ優しそうな人だ。きっとエマを助けてくれるだろう。
(ケンちゃんと同じところにピアス空けてる……)
 一方的に親近感を抱いてしまった事もあって、もう一度、すみませんと声を掛けた。
 ぜえはあと息を切らして走ってきた少女を見て、驚くなという方が難しい話。案の定声を掛けられた男性は、驚いた表情を崩せないでいる。
「え、オレですか?」
「助けてください……!」
 金の髪をした男性は、困惑した碧い瞳でエマを見つめた。



 助けてください! そう言いながら頭を下げる女性の姿を目にしたとき、黒猫は己が立てた作戦の成功を喜んだ。
 明るい色をした柔らかそうな髪が、頭を下げた弾みでふわりと肩から落ちる。
(佐野、エマ……。あいつら、上手くやったみたいだな)
 間違いない。彼女こそ佐野真一郎と万次郎の末妹、エマだった。
 黒猫だけがここにいるのは作戦だった。部下だけを拉致現場へ向かわせて、自分は別行動を取ることにしたのだ。
 尤も黒猫と言っても、今の彼はその代名詞に当たる黒い色を纏ってはいないのだけれど。これからの計画のため、急ぎ髪色を戻し明るく染め直したのだった。
 母親譲りの、金色の髪。きっと部下でさえこれが黒猫だとは気づかないだろう。
 黒猫、否千冬の計画としては、ストーリーを作ることだった。鍵となるのは、千冬という一般人が逃げてきた女の子を偶然助けて、それが王女だったというシチュエーションを作ることだったから。
 脳内で何回も行ったシミュレーション通り、ごく自然に、たまたまここを通りかかった様子を装って千冬はエマへ話しかける。
「そんなに急いで、どうかしましたか? ……え! もしかして怪我をしてませんか⁈」
 声を掛けてきた女性をよく見たら怪我をしていた、そんな反応ができただろうか。大丈夫ですか⁉ と心配する声も少し大げさくらいで丁度いいだろう。実際パッと見たところではエマに怪我なんてなかったのだけれど、服が数か所汚れているところを見ると走ってくる最中に転んだのかもしれない。
 連れ攫われて一人で逃げてきたところなのだから、それだけ言えばエマの方から情報を口にしてくれるのではないかと、そう思ったのだった。
 案の上、再び大きな目に大粒の涙を抱えたエマは、千冬の大げさなリアクションに反応を示した。
 震える声が、その唇から零れる。
「……男の人たちに追われてるんです……! 助けてください……!」
 ぼろっと落ちた涙を不謹慎ながらも美しいなんて思ってしまったところだけれど、想像していたよりも良いシナリオになりそうだと、千冬は心の底で微笑むのだった。
「追われて……?」
「その、ウチ、じゃなくて、私……」
「ああ、落ち着いてください、話なら後で聞きますから」
 声を出そうとするたび咳き込み始める彼女を制止する。それなら、とにかくここから一度離れましょうと言った千冬に、エマは従順に付いてきた。こんなに簡単に人を信用するようではあまりにも心配だと思ったところだったけれど、この場合は都合が良いので何も言うまい。
 実際のところ、千冬は別に王女を救出するためだけに急ぎ西領から赴いたわけではないし、霧の目的はまだ達成できたかわからないけれど、このまま犯人達のことは部下に任せておけば後は問題ないだろう。王女を攫ったのが霧による犯行ではなかったと、上手く証明してもらえればそれでいい。ごく自然に犯行グループの素性が暴かれれば問題ないだろう。いずれにしてもここで王女の無事が証明できれば、東卍は犯人確保のためにあの廃墟へ向かうことになるだろう。そこに転がっている奴らを見て状況を察してくれればそれでいい。
 何よりも、そこまでできればボスも納得してくれるに違いない。
そうなれば千冬が今すべきことはひとつ。彼女を安全な場所へ送り届けることだ。
 再度自身が立てた計画を脳内でなぞった千冬は、このまま一番近い民家を叩き、事情を説明して東卍のメンバーが来るのを待ってもらうのがいいだろうと考えた。その考えは元からあったけれど、エマと合流ができなかった場合も含めいろいろと作戦を考えていたのだ。
(名付けてEDDS(エマ奪還大作戦)、成功間違いなしだな)
今回は一番理想としていたシナリオで進みそうだと結論づけて安心する。
 千冬は着ていた上着を脱ぐと、彼女の肩にかけてやった。まずは寄り添う事が大切。
「追われているんでしょう? ……その髪の色では、目立ってしまいますから。オレもこの色が生まれつきなんで」
 随分と聞き分けの言い人物過ぎただろうか? 突然助けてと赤の他人に言われてこんな冷静に対応ができるだろうか、そう思ったが少しお人好しが過ぎるくらいに演じていて問題ないと思うことにした。
 ここまで千冬が色々頭を働かせるのは、経験上一番物事が上手く行っている時こそ油断をしてはいけないと学んでいるからだ。かつて、後一歩のところまで追い詰めた相手に最後の最後で逃げられた苦い経験がある。
「……助けてくれて、ありがとうございます。私は、エマと言います」
「エマさん、ですね。オレは」
 一瞬だけ、迷った。
「オレは、千冬と言います」
 迷ったけれど、自然と名乗ることができた。
 彼女を探しているのは、東京卍會と情報が入っている。それなのにあえてもう何年も使っていなかった本名を出したのには理由がある。
 全ては、次の計画へ進むため。
(きっと場地さんは、オレのことを覚えてくれているはずだから)
 申し訳ないと思いながらも、作戦のために利用させてもらう。千冬はこれから、東卍の内情を探りボスへ定期的に報告しなければならないのだから。
 エマはきっと、自身を助けてくれた人物の名を兄に明かすだろう。それは真っ直ぐ場地へも伝わるはずだ。そしたら、きっと彼は千冬を探しに来る。
 そこまで分かりきっていた。
(王女にオレの存在を伝えておけば、今日のオレがやるべきことは終わる)
 王女を攫った組織の方は、きっと部下がどうにかしてくれているだろう。そちらは床にでも転がしておいて、東卍に見つけて貰えばいい話。
 きっと、全てが上手く行くはずだ。
 目指す民家はすぐ近く。ここからが大事な場面だ。



「隊長、街が見えてきました」
「おー、アレか」
「この街を越えた先が、取引に指定されている場所っスね」
「まずは街の自治隊員と落ち合うってマイキーからの指示だ。オマエら行くぞ」
「ウス」
 馬を走らせること何時間経っただろうか。漸く見えてきた街に、場地は少しだけ安堵した。早く進まなければと思うほど道のりを遠く感じるというのだから、大変だったのだ。部下や馬達には悪いと思いつつ、最低限の休憩でここまで駆けてきた。 
 受け取った情報が正しく犯人からの物であったなら、犯行グループはこの土地にいるだろう。その情報を頼りに場地達壱番隊は街へ付いた。
 街の自治組織と落ち合ってここから先の作戦を話し合う……予定だったのだけれど。
「……は? エマ……王女が救出された?」
 自治組織の隊長は、王女は先ほど保護されましたという報告と共に壱番隊を出迎えたのだった。
「はい、現在は我々が拠点としている施設にいらっしゃいます」
「えっと……アンタらが、先回りして救出してくれたんスか?」
「話すと長くなってしまいますので、ひとまずこちらへ」
 東卍が辿り着く前に救助へ躍り出たのかと思って尋ねると、そうではないらしい。その様子を見て、どうやら彼らも混乱しているのだと察した。
 こちらへと言われるままについて行こうとすると、一人の部下が場地に耳打ちをした。
「隊長」
「アン?」
「王女でない可能性も、あります。慎重に向かった方が良いかと」
 彼の心配はその通りだろう。知るものが会わないと、本人かどうかは分からない。
「そーゆー可能性もあるんか。そーだよな、わかったワ」
 こそっと耳打ちしてきた部下の言う事は的を射ているだろう。この場合はあまり考えられないけれど、犯人達が寄越した囮の可能性もある。この中で唯一エマの顔を良く知っている場地が会わない事には、何もわからないだろう。
 そうして少し警戒心を高めて付いて行った先には本当にエマがいたのだから驚きだ。
 見知った顔を認めた彼女は、わかりやすく眉を下げた。
「場地……」
「悪ィ、遅くなった。マイキーとドラケンに、はやく伝えてあげねーとな」
 場地がそう言うと、わかりやすくエマの目元に潤みが戻ってくる。当然ながらずっと不安だったのだろう。
 おーおー泣くなやと言えたのは、昔からよく知った仲だからこそ。それが余計に安心感を誘ったらしく、すでに真っ赤になっている瞳から再び涙が溢れるものだから。もしこの場に一虎がいたら、場地が女の子を泣かせた! とかなんとか言われていたかもしれない。ついでに、目腫れるぞと言ったことに関しては、本人からデリカシーがない! と怒られてしまったのだけれど。
「エマ、オマエはどっか別の部屋で休んでろよ。疲れてんだろ。……そこのオマエ、マイキーに超特急で連絡頼むワ」
「ハイ!」
 エマ様お部屋を用意しましたのでこちらにと、世話役を務めてくれるらしい女性が来てくれたので一安心した。恐らく、自治隊関係者。見知った護衛が見当たらないのは不安だが、それはこれから報告があるのだろう。
「……で? 何があったンです?」
 王女の無事も確認ができたし、やるべき指示も出し終わったと判断して、壱番隊を出迎えてくれた街の自治隊長へ再び振り向いて問いかけた。
「状況は既に私が伺っておりますので、お話しします。それと、彼の方がよく事情を知っているかと思って、引き留めておきました」
「あ? 彼?」
「エマ様を助けてくださった方がいたのですよ。大したことはしてないからと帰ってしまわれそうなところを、どうかと言って待っていただいてたんです。今は隣の部屋にいますので、連れてきますね」
 状況がいまいち掴めなかったが、どうやらエマは誰かに助けられて無事に保護されたようだ。その人物を待つ間、場地はどうしたものかと考える。エマを助けることができたのであれば報告は後回しにして、一刻も早く彼女を連れ王都に戻るべきだと、そう思ったのだけれど。
「場地隊長、お待たせしました」 
 運命とは一体何だろうか。
 初めに飛び込んできたのは、目を惹く明るい髪。
「……ち、ふゆ……?」
「……ばじ、さん」
 彼の碧い瞳がこちらを見つめている。
 これはまた、夢の延長線上なのだろうか。

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