黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑬

【十三章】


 黒蛇は、番犬に心底心酔していた。
 物心ついた時から裏社会で生きてきた黒蛇は、その腕っぷしの強さが自慢で多くの依頼を難なくこなしてきたような人物だった。腕を見込まれて暗殺を依頼される機会だって少なくなかったほど。
 そんな彼にとって唯一勝てなかった相手こそ、のちに霧を率いていくことになる番犬だったのだ。なぜ彼がこう名乗っているかは知らなかった。その名で通っていたから、そう認識していただけ。でも地下社会なんてそんなものだ。戸籍も本名もないような人間がそこら中に転がっているのだから。彼ももしかしたら、親から与えられた名なんて存在しないのかもしれない。けれどそんなことはどうでもいい。結局は、何かあった時に判別できる異名でもなんでもあればそれで問題がない、そんな世界でずっと生きてきたのだから。
当時は拠点にしている路地を取って「四丁目酒裏の旦那」と呼ばれていたところ、黒蛇という名を与えてくれたのも彼だった。やりたいことがあるからついて来いと言われて、仲間になるなら名をやると。そんな感じの出会いだったことを記憶している。
 この人ならついて行ってもいいだろう。
 黒蛇にとって、自我と生きる意味を与えられた瞬間でもあった。
 そうやって№1の右腕、つまり№2として動いていたある日、黒蛇は人生を変える二度目の出会いを果たす。ようやく組織というものに慣れてきた頃だった。
「オイ、黒蛇」
「なんでしょうか」
「今日からこいつ、オレの下に付けるからな。……黒猫、こいつはオレの直属の部下。黒蛇だ」
「噂は兼ねがね。オレは、黒猫です」
「……黒蛇だ」
 よろしくお願いしますと言いながら伸ばされたのは細くて華奢な手。ボスの手前、差し出されたその右手を取らないわけにはいかなかったが、正直内心では面白くないと思っていた。思っていたし、番犬だってそれを見越していたことだろう。
 黒猫という名を、これまで聞いたことがなかった。それも当然だろう。当時西領の裏界隈でそれなりに名の売れてきた黒猫ではあったけれど、所詮はまだ子どもであったのだから。殺し屋の担ぎをしていたわけでもなければ、何か特別な繋がりを持っているような少年でもなかった。
 だから、急にこちらの界隈ではかなり名の知れた番犬ことボスが少年を直属に付けるなんて言うから、面白くないのも当然の話。それどころか一瞬良からぬことだって考えた。まさかこんな子どもが、しかも男が番犬相手に美人局のような真似をしたとは考えにくかったけれど、何があるのかわからないのが地下社会だったのだから。
 とにかく、黒蛇にとって黒猫の第一印象はさほど良いものではなかったのだ。
 さて、二人が形ばかりの握手をしたのを見届けた番犬は、用があると口にした。ほんの少し嫌な予感がしたことを、今でも忘れていない。すぐにその予感は的中することになる。
「後のことは黒蛇に聞け」
「わかりました」
「という事でよろしくな」
「……ハイ」
 正直何を任されたのか、それすらわからなかった。
 初めは教育指導でもしろと言われたのかと思ったけれど、そんなレベルの子どもをまさか彼の下に付けるとは思えなかった。もし本当に勉学の真似事をさせたいのならまず黒蛇に任せるわけなんてないし、万が一そうだとしてもそれなりの指示はくれただろう。
 部屋を出ていく番犬を見送りながら、しばし悩む。
 目の前にいるのは、黒髪を刈り上げた細っこい少年。印象に残る点をあげるとするなら、意志の強そうな碧い目と、左耳にだけ飾り物を付けているという点だろうか。それ以外は、どこにでもいるような少年だった。
「……多分、なんでこんな子どもがって思ってると思うんで先に言っときますけど、オレ勧誘されただけなんで」
 どうしたものかと思っていた矢先、先に声を掛けてきたのは黒猫の方だった。視線を感じて目を合わせる。
「正直、まだあの人の理想とか良く分かってないっス。でもオレが必要って言われたんで付いて行くことにしました」
 ということで改めてよろしくお願いします、そう言われて黒蛇は頷くことしかできなかった。
 こうして初対面を終えたわけだけど、依然と納得しないのは当然のことだった。
 繰り返すが、黒猫は本当に見た目だけならどこにでもいる少年に違いなかったのだ。特に体格に恵まれているわけでもなさそうだった。強いて言うなら子ども特有の柔軟性だったら持ち合わせているだろうといった程度。しかし、本当にそれだけだ。何かに突出している印象は受けなかった。
 対して黒蛇と言えば、数々の有名なゴロツキに雇われて、対象を消した経験も露しらず。今番犬という圧倒的カリスマに付き従っているのは、彼だけが唯一黒蛇よりも実力がある存在であると認めたからに他ならなかった。というか、それ以外の理由なんてあってはいけないとさえ思っていた。
(クソガキのくせに、なんで)
 右腕は、自分だけで良かったはずなのにと。
 この感情が嫉妬であることを、黒蛇はよく理解していた。でも、彼が大人だった点は、その感情全てに身を任せなかったところ。これまで実力社会で生きてきた経験によるものだろう。認められないのであれば、手を合わせてみればいいと考えた。それでもし思っていた通りに黒猫が大したガキでもないなら、その時はその情報を持ってボスに交渉するまでだ。
 それに、黒猫はあくまでボスに勧誘されたから霧に入ることにしたと言っていた。この組織が何を目指しているのか、それすらよく理解していないに違いないと決めつける。国家転覆なんてそう簡単にできる事ではないのだから、この志に共感ができないのであれば、ここにいたって大した役に立たないだろう。
それどころか、仮にも少年の未来を決めてしまうのであれば早いうちに逃げ口を用意してあげるのもまた大人の役目なのではないだろうか。
 そうやってひたすらに言い訳を並べて。とうとう黒猫に声を掛けたのだ。
「黒猫」
「どうしたんスか?」
 その日黒猫は、ボスに言われた初任務をこなしてきた後だった。どうやら暗黙の了解を好き勝手に破って霧のテリトリーで勝手な商売をしている人間がいたらしい。そいつの粛清をしてこいと、要はお手並み拝見といったところで向かわされていたのだ。
 傷ひとつない、涼しい顔で戻ってきた黒猫に、真っ向から手合わせを願う。
「オレと、戦え」
 いきなりこう言われても正直良く分からないだろうから、黒蛇は素直に今自分が感じていることを伝えてやった。
「オレは、ボスについて行くと決めてここに身を置いているが、正直ボスがお前を連れてきたことにまだ納得はできていない。だからオレと戦え」
「……実力を見たら納得するって事っスか?」
「ああ。そういうことだな」
 黒蛇の真面目な人柄的に、奇襲をかけるという選択肢はなかった。パッと出の黒猫がなぜボスに気に入られたのかわからないと、正直に伝えたのだ。
「わかりました」
 言われた黒猫はあっさりと納得して、黒蛇に向き合った。
 言わんとすることを察してくれる頭の良さに少しだけ評価を上げる。ただ、上がったのはそこだけで結局実力を見たいという気持ちに変わりはないのだけれど。
 そして。
 結果的に、黒蛇は黒猫に負けた。
 どう考えたって相手は第二次性徴前の子ども。対する黒蛇はとっくに成人を迎えているし、実力は決して自己評価だけではない。修羅場だっていくつも潜り抜けてきたはずなのだ。それでも、ほぼ互角に張り合ったその最後、負けたのだった。
 言い訳をするとしたら、もしかしたら手加減してしまったところもあったのかもしれない。こんな奴に本気になってと、内心馬鹿にしているところがあったのかもしれない。しかしはっきりこれだけは言えた。黒猫は強いと。否これから絶対に強くなる。それが断定できたのだ。今はまだ、黒蛇の方が強い可能性だってある。油断をせずに対峙したら結果は違っていたかもしれない。けれど、正直その最後、黒蛇は今ここで彼に負けていいと思ったのだ。負けたことを理由に、彼の下についていいと、あの目を見た時に思ったのだ。
何かを覚悟したような、真っ直ぐで碧い瞳。少年の瞳の奥を見て、決して事情は分からなくても、それが揺らぐことのない絶対的なものであることは理解ができた。
 この瞳に映る物の為に、付いて行ってもいいのではないだろうか……。
 ボスへ付いたのは、彼が圧倒的な力を持っていたから。本気で勝てる相手ではないとそう感じたから。でも、黒猫に対してはもっと力とは別の何かに惹かれた。
「黒猫、オレの負けだ。オレはこれからお前に……貴方に付いて行きますよ」
 そうして差し出した右手を、黒猫は躊躇いなく握った。
これが二人にとっての本当の握手だったのだろう。
「認めて貰えて、嬉しいっス」
 あの日から、いやあの瞬間から黒蛇にとっての絶対的な存在は黒猫になった。
 そうして彼の下で行動を取るうちに、黒猫が本当は全く別の目的で霧に所属していることに気づいた。勿論、用心深い彼が相手だから、そんな素振りがあったわけでも、実際に話をされたわけでもなかったけれど。本当に偶然が重なって、今彼がボスに忠誠を誓っているのはその先を見据えているからだと気づくことになったのだ。 
 本音を語らない黒猫がその瞳の奥に何を映しているのかは、一生知れるものではないのだろう。
 けれど、ある時の彼の言葉で、もしかしたらと思ったのだった。
「オレ、一つだけ嘘吐いたことがありました」
 それは本当に偶然の事。出会った頃の話になった時。
 目の前にいる彼は、もう子どもの域をすっかり抜け青年になっていた。きっと今勝負を挑んだら、今度こそ確実に負けると勝負を挑む前からわかっているくらいに。たった数年の時で少年から青年へと成長していく黒猫を傍で見て、不思議な気持ちになったのも確か。
 それでもまだ成人を迎えていないことは知っていた。若いはずなのに年に見合わないやけに大人びた顔でこう言ったのだ。
「オレにはちゃんと、目的があって、だからあの人に付くって決めたんです」
 これは、初めて会ったその日に自分は番犬に勧誘されただけだと言ったことについての話だったのだろう。
 この頃はすっかり口調が今のように入れ替わっていて、黒猫が黒蛇に敬語を使うほうが珍しくなっていたものだったから、少しだけ驚きと、懐かしさを感じたものだ。
「なんて、急に聞かされても困るよな」
「いえ。黒猫に芯のようなものがあることは、気づいてましたよ」
 正直にそう答えると彼は少しだけ目を見開いたのだった。それもほんの一瞬のことだったから、うっかりしたら見逃していたかもしれないほどの、僅かな表情の変化だったけれど。
 あの日の話はそれきりで終わってしまったけれど、黒蛇はこの時彼の見ている先は西領の計画やボスの野望でないことを悟ってしまった。彼の語るボスへついて行くという、疑う理由の一切ない言葉でなぜかその奥が見えた気がしたのだ。
 ボスに報告して彼を追放しようとか、そんなことは思っていない。
 その代わりに、一つ確信したことがある。
(黒猫の瞳に映る物の為に、付いて行くと決めたのは間違いなかった)
 彼の目指す先が、西領になくてももう構わなかった。
 だって黒蛇は今日も黒猫が進むその茨道をついて行けば良いのだから。

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