黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑪

【十一章】


 朝起きた時に、あの日に戻ることができたらいいのにと思う事がある。
「ねみぃ……」
 くあ、と思わず零れた欠伸がうっかり誰にも見られていませんようにと思う。この部屋はこの組織に身を置いたその時から黒猫の私室で、他には誰もいないというのに。
 黒猫が霧へ入ったのは今から四年前の事。
 六つの頃から七つに掛けて過ごした院が薬物依存のゴロツキに襲われ、帰る先を失った千冬達孤児はそれぞれ別の孤児院へ引き取られて行った。病院で目を覚まし、次に場地に会う日を楽しみにしていた千冬もそれは例外ではなくて。急かされるように馬車に乗せられて着いた先は、王領と西領の境にほど近い街だったのだ。少なくとも子ども一人では王都に行くことなんてできるわけもなく。そんな先に連れて行かれた千冬はその日一日を泣いて過ごしたものだ。
 それでも千冬が折れたりしなかったのは、結局、お別れの挨拶さえできなかった憧れの人をずっと忘れられなかったから。
 母を失った日から自分が、小さな存在であることがずっと悔しくて仕方なかった。
 また一人ぼっちになってしまった千冬が求めたのは、強くなること。一人で何でもできるようになること。いつか再び場地に会うため、その時彼に恥じることの無いよう堂々としていたいから、そのために力を付けようと誓ったのだ。
 しかし、その夢を叶えることは並大抵のことではなかった。
「うわー! なんだよこの髪ー!」
「勝手に触んじゃねえ!」
 院を移って半年後に入ってきた少年は、千冬の物珍しい髪の色を見て千冬を苛めた。少し年上の、体格の良い少年。彼はあっという間に施設を仕切る存在になった。他の子ども達は、彼の暴力が怖くて彼に従った。
 千冬だけが標的にされるなら許せたのだけれど、彼は一つ年下の女の子にも目を付けていた。千冬に相手をされない事へ気を悪くしたのか、彼女の嫌がることをしたのだ。いいか千冬、力は仲間を守るために使えと言った未だ尊敬する彼の教えに従って、はじめて人をぶん殴ったのがこの日だった。
 しかしその事が問題となり、千冬はまた別の院に移動させられることになったのだ。
 あの日学んだことは、力の使い方を間違えた結果守りたかったものさえ守れなくなることがあるのだという事だった。だって、結局あの院には少年と少女が残ったのだから。今となっては、彼女がどうなったかさえ分からない。
 そんな日々を生きてきたものだから、千冬は同世代の子ども達よりも精神的に大人になるのが早かった。
 力を磨くことを忘れず、本当に必要なものを守るためにはどうするかをよく考える。最後に孤児院にいたのは十歳の時。その誕生日を迎えたその日、千冬は孤児院を飛び出した。もう、自分一人でも生きていけるとそう思ったのだ。これくらいの歳なら、簡単な掃除くらいであれば仕事として雇ってもらえることを知っていた。本当は軍隊の訓練生にでもなれればそれが一番良かったのだけれど、身寄りの全くない千冬には難しい世界であることを理解していた。
 まずは一人で生きていけるようになる。そして一人前になって場地に会いに行く。それが当時の千冬の夢になった。
 そう思って雇われ仕事をいくつかやっていると、暴力的な場面に遭遇することも増えてくる。そんな時に、ずっと磨いてきた場地からの教えが生きた。そのうち千冬の腕を買って護衛の仕事が良く回ってくるようになった。
「あいつはガキだが腕がいい」
「聞いたよ。物怖じもしねえってさ。肝の座ったやつだ」
とはいえ、齢十一、二の少年の元にやってくる依頼だ。当然のようにろくでもないようなものがあったのも事実で。依頼主が裏世界の人間だったり、下手したら死ぬような内容もあった。
 しかし裏社会と繋がりを持てるようになったことで一つ大きな獲得があった。何せ情報が金で買われていく社会に片足を突っ込むようなものだったから、自然と遠く離れた国の中心に近い話だって耳にするようになったのだ。
 一度、あいつはガキのくせに護衛として優秀だし決して情報を外に漏らさないと話が広まればこっちのものだった。付き仕事さえすれば、金で買わなければいけない話まで耳にすることができるようになったのだから。
(場地さんは、親父さんを見習っていつか国軍に入るって言ってた)
 その情報が、欲しかった。あの頃から優秀だった彼のことだから、今にその名を耳にするようになるだろうと。
 だからこそ本当に場地圭介の名を耳にしたときは、心の底から安堵をしたのだ。そして、心震わすこれが歓喜というものなのだと。
 そんな生活を送っていた千冬のやるべきことが定まったのは、十二歳の時だった。未来を夢見ながらもその日その日を生き延びるしかできなかった千冬に、本当の目標ができた日。
 東京卍會という組織の名を耳にしたのだ。
「で? その卍會とやらはいったいなんです」
 その日千冬は荷物番の仕事をしていた。場所は酒場で様々な情報が入ってくる。本来であれば子どもが立ち入っている時点でろくでもない店であることは確かだったけれど、そんなろくでもない世界では当然のように受け入れられている状況だ。
「何でも、真一郎様に付く兵らしいよ。ほら、王子は国兵を動かせないだろう」
「ちょっと前に、第二王子の一派が第一王子を襲っただろう」
「ああ、第二王子が死んだあれか」
「それだ。アレを受けて、第一王子派の若者たちが兵に志願したらしい」
「優秀な若者たちもいるもんだねえ」
「リーダー格の男は訓練兵を出たばっかりの異国のヤツらしい」
「へえ! 最近増えてきたけど、珍しいもんだね」
「妹君……王女が半分あっちってことで馴染んできたのもあって、恩義を感じてるらしいね。その男……っつってもまだガキだけどな、そいつら数人が国兵への入隊を蹴って、立ち上げをしたらしい」
「ほー」
「アレ、オレが聞いてた話とちげえな、リーダーの男が異国のヤツらしいっていうのは間違いねえが、オレが聞いたところだとそいつ訓練兵でもなかったって」
 確かアレだ、マイキーとかマイケルとかなんとか、と男は続ける。
 こういう場だから情報が食い違うことだってしょっちゅうある。大事なのは、嘘でも本当でもとりあえず耳に入れておくこと。それがあとあと生きてくることもあるからだ。脳内にメモを記すように、一言一言を反芻する。忘れないように、欠けさせないように。
 そんな千冬は、次の瞬間思わず耳を疑う。
「前の王子夫妻が亡くなった時、一緒に殉職した護衛官がいただろう」
「あー、バジとかいうやつだったか」
 その名に、千冬の心臓が跳ねた。
「そいつの息子が今年訓練上がりだったが成績は二位。国軍は入隊を待ってたって話だったんだけど、結局そっちに行ったらしいぞ」
(場地さんだ……!)
 聞き役に徹している時の困りごととしては、話の主導権が全て向こうに在ることだけれど、その情報が手に入っただけで千冬にとってはもう全てがどうでもよくなるほどだった。幼馴染のために強くなりたい、そう語っていた彼が。その夢を叶える一歩を踏み出していることが分かった。その事実が何よりも嬉しかったのだ。
(……東京卍會)
 この日をずっと待っていた。
 そこに、憧れの男がいる。
 正直その日は以降の記憶があまりない。あんなに一言一言を漏らさないようにと気遣っていたというのに、場地のことを耳にしただけでこれだ。それだけ、千冬にとっての吉報だったのだろう。
(場地さん、すげえや)
 そんな千冬に新たな転機が訪れたのは、同じ年の冬だった。誕生日を迎えた千冬は、丁度この先をどうするか考えていたところだった。戸籍もない、身寄りもいない、そんな千冬に在るのは誰よりも自由であるという事だけ。 
 その頃はもう、本名を晒すことを辞めて黒猫と名乗っていたのだけれど。
 やはり裏社会に半分足を付けていると、良くないことに不意に出くわすことだってある。逆恨みを買ったことだって、少なくはない。そのために目立つ生まれつきの髪を黒く染め、そこから名を取った。思い浮かべたのは、産まれた街で良く戯れていたあの猫だ。
 さて、場地に会いに行きたいと思って実行せずにいたのには二つの理由がある。
 ひとつとしては、やはり今いる環境が大きかった。こちらの世界に馴染んできている黒猫が、どうして表の世界で活躍する場地に会えるだろうかと、そう思うこともあったのだ。
 そんな風に先を考えていた時、例の転機は訪れた。黒猫の噂を聞きつけたとある人物が、声を掛けてきたのだ。
 それが、これまで黒猫の上司となっている男。
「オレは番犬って名乗ってる。何の犬かはこれからわかることになるだろうけどな。動物の名を持つ者同士仲良くしようや」
 さて、二つ目の理由。
 当時、千冬は独自に追っていることがあった。どうやら、西領に新しい組織ができるのだという噂がまことしやかに流れていたのだ。裏世界の情報はなにが真実で何が間違いかわからないところがある。正直、最初西領に新しい組織と耳にしたところで、どこにも何にも所属をしていない黒猫が気にする話題ではなかった。けれど心の奥底で引っかかっていたのは、西領は王領と実はあまり良い関係ではないことを耳にしていたから。どこの国だって、一定数国政に不満を持つ層は存在する。それが特に権力を持つ層になってくると、表向きの忠誠と裏側では全く別の意図が働いていたっておかしくない。
 黒猫にとって何よりも大切なのは、場地が守っている世界を守ること。
(もし、西領がいつか国家に楯突くことがあるとしたら)
 それは千冬にとっても望まないことになるはずなのだ。
 そんなところに舞い込んできたのが、まさに気になっていた組織からのスカウトだったわけで。
(ここに入っていれば、実態を暴けるかもしれない……?)
 黒猫は今尚、一人で戦いのど真ん中にいるのだった。
「……どうしてオレに声かけたんですか?」
「お前、体術がそこらのとは違うみたいだったからな」
 なるほどと思った。千冬のベースは、かつてたった一人によって作られている。教えてもらって以降は独学で積み上げたところもあるけれど、基礎というものは案外目に見えてくるものだ。それが彼のお眼鏡に適ったらしい。
 そしてきっと、お眼鏡だけではなく、この型が何であるかも気づかれている。それを探りたい気持ちもあるのだろう。
「どこで習った?」
「……昔いた孤児院の近くで、良く練習してるのを見てて」
 昔王都で暮らしていたのだと、口にしてみた。すると彼の目の奥が光った。
 本当のことを話さなかった自分の機転の良さについて黒猫は今でも自らへ感謝している。ここでうっかり本当のことを話していたら、その時点でこの先この組織との縁は途切れていたことだろうから。
 この日から、黒猫はずっと一つを守るために動き続けている。
 表向き所属組織の霧、そしてその後ろに控えている西領への忠誠を誓って、心の奥底本当に大切なところ、その命はなにがあっても場地と彼が守る世界に捧げると決めているのだ。
(あの人にもらった命だ。オレの全てはあの人のために使う)
 今日もまた、自己暗示を怠ったりしない。

前話
続き

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

inserted by FC2 system