黒猫は今宵壱等星の夢を見る⑤

【五章】


「母ちゃん! ちょっと遊びに行ってくる!」
「千冬ー! 暗くなる前に帰るのよ!」
「わかってるよ!」
 いつまでも子ども扱いしてくる母親に、オレもう子どもじゃないから! と叫んだあの少年の日は、確かに何年経ってもまだ小さなガキであったと思う。勢いよく家を飛び出したあの日を、黒猫は今でも後悔し続けている。もしあの日をやり直すことができるのであったら、何をするだろうか。母を連れて出る? いや、後悔しているのはそれではない。暗くなる前に帰るようにと告げた母に、わかった以外のもっと何か、違う言葉を返すことができたのではないかと、その後悔がずっと身の内で燻ぶっているのだ。
 外に出て行ったのだって、友人と遊ぶ約束をしていたからではなかった。母親に異国の血が入っていた千冬は、昔から子ども達の輪になかなか入ることができなかった。明るい髪色は、どうしても小さな街では浮いてしまうのだ。でも、いつまでも友達を作れず家にずっといるのでは大好きな母親が悲しむ。父を早くに亡くした千冬にとって、母親は何よりも大切な存在だったから。
 女手一つで千冬を育ててくれた母。その母に心配をかけたくなくて、友達と遊んでくると言って街はずれで一人、猫と戯れて遊ぶのが千冬の幼少時代の思い出だった。家で飼えないことは、理解していた。それでも千冬を見かけるたび摺り寄ってくる真っ黒な猫が愛らしくて、自身の昼飯であるパンをこっそり持ち出しては、構っていたのだ。
 明日が今と変わらず訪れるというのが全くの幻想であることを、千冬、否黒猫は僅か六歳で知った。
 暗くなる前に帰るとそう母と約束したから、その日も太陽が沈む少し前に街の外れにある自宅へ帰ったのだ。
 千冬と母の住む家は細い小道を辿った林の中にある。なぜ自宅が少し不便な場所にあったのか、その意味をきちんと理解したのは、この日が境だったように思うけれど。
「……なんか、臭い?」
 はじめに感じたのは嗅覚の違和感だった。
「……火?」 
 何か嫌な予感がする、幼心にそう思って家へ急いだ千冬が目にしたもの。それは、普段母親が料理をするときくらいしか目にしないものだった。赤く、激しく、熱いもの。
 それを目にして、散々母に言われたことを思い出す。「母さんは火の使い方を知っているからいいけれど、一人でいるときは絶対に点けてはだめ。火は危ないから、アンタにはまだ早いの」と。少しでも背伸びをしたい年頃だった千冬だから、オレもうガキじゃねえもん、なんて拗ねて見せたけれど、近寄ると熱いそれは確かに何だか怖いものだと感じたものだったから、母ちゃんはすげえなと幼心なりに感じていたのだ。
 それが、なぜ、千冬が今いるここから見えるというのだろうか。
 いつもこの道を通って家へ帰る時は、見たことがないというのに。
「っ、母ちゃん……!」
 思わず叫んで、家へ走る。
 何か母にとって良くないことが起こっている、それを瞬時に感じたのだ。
 そうして家の全体像が見えるところまで駆けて行って。これが自分ではどうしようもないものなのだと理解し絶望するという人生で初めての経験をすることになってしまったのだ。
 火事という言葉を聞いたことはあった。それこそ、火の扱いについて話していた母が、使い方を間違えると火事になってしまうからと教えてくれたのだ。火事を起こすと、人に迷惑が掛かってしまう。死んでしまうことだってあるのよと。千冬には、死ぬという事がどういうことかまだ理解できていなかったけれど、父のようにもう二度と会えないのだという事は分かっていた。まだ学校に通う年でなかった千冬にとって母の言葉は全てだったから、ちゃんと覚えていたのだ。
「燃えてる、なんで、母ちゃん、……母ちゃん!」
 声の限りに千冬は叫んだ。何をどうしたらいいのかわからない。そもそも母がどこにいるのかさえ、何も。母は火の扱いを心得ていたはずだ。だからこんなことになるなんてあり得ない、きっと、悪い夢か何かだとそう思いたかった。今すぐ家に入って、せめて母の無事を確かめたいと思うのに、激しい炎の熱さは本能的にこれが危険であることを千冬に告げている。近寄ることすらできないのだ。千冬はただそこに立って、ただ叫ぶことしかできなかった。



(……夢)
 ぱちり、自然と目が開いた。そして、ああ、嫌な目覚めだと黒猫はげんなりする。カーテンの隙間から薄く入ってきている光はこんなに眩しいのに。きっと外の天気も良くて、心地よい一日を過ごせるはずなのに。よりにもよってあの日の夢を見るなんて、と気分が暗くなる。最近はこの夢に魘されることも少なくなってきたというのに。
 黒猫が、天涯孤独の身になった日の夢だった。かつては見るたびに心が締め付けられて、もう二度と会えない母を想い泣いたものだったけれど。
 でも、過去の夢はそんなふうにトラウマを残しているわけだから見て気分の良いものではないけれど、決して最悪なわけでもないことを、今の黒猫は知っていた。
(東京卍會)
 ボスにあの報告をしたから、こんな夢を見たのだろう。
 燃え盛る生家に対峙したその日こそ、黒猫の人生が大きく動いた日だ。最愛の母すら助けられず何もできなかったただの少年が、一つの組織の幹部になるまでの長い道のりを歩むことになる最初の日。母親を亡くし天涯孤独となったあの時、きっと千冬という名の少年が辿る先の未来を決めたのだとそう思っている。「放火だってね」「奥さん、亡くなったんでしょ? ほら、あそこの菓子屋で手伝いしてた……」「いつも笑顔でいい人だったよねえ……確か旦那さんも数年前に亡くなってなかったかい?」「ああ、どっかの血が入ってる人だっけ?」「息子さんがまだ学校にも上がってないって……」「どうなっちゃうんだろうねえ……」あれからそんな噂をいくつも耳にした。当然のように噂話が自分のものであることはすぐに分かった。黒猫が幼少を過ごした街は関東国の王領、王都東京からは外れたところにある小さな街だ。そんなところで聞こえてくる話なのだから、耳に入って当然だった。その話を耳にしながら、どうやら母は泥棒に押し入られて殺されたらしいということを初めて知ったのだ。調査が入っていたという事は知っていたけれど、幼い千冬にはその詳細は知らされることがなかった。もちろん、当時は街の人達が話すその意味をよく理解できていなかったのも事実。人々が噂する話をいつか理解しようと何とか頭の中に叩き込んでいただけ。だからこそ成長していくにつれて、その意味を自分の中で解釈していく方があの日最愛の母を失ったよりも何倍も苦しかったのだけれど。
 千冬の生家は、強盗にあったのだ。街の外れにあったことから、犯行に及びやすかったのだろう。そしてその家の住人の口封じをするために、火を放った。これが母の死の真相だった。異国の血が混じった千冬の母は、住民達に気を遣って街外れに暮らしていたのだ。今でこそ、血縁者の中に異国の人間がいる人だって増えているけれど、当時はまだ少なかった。それに配慮していた結果がこんな悲しい事件に巻き込まれることになってしまった理由だったのだ。千冬はまさに不幸な子どもだった。
 それでもあの日千冬が外に出ていたのは、きっと母にとっては幸いであったに違いないだろう。
 しかし、決して失ったものだけではない。
 あの日があったからこそ、今の黒猫は存在している。道に迷った時に何度だって立ち帰る日はここにあるのだ。
「場地さん……」
 広い部屋の一角に、吐息が零れた。

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