胡蝶は現を飛ばず

 心地よさに身を委ねている甘美な時間。一体今はいつで、ここがどこだかわからない。一つ分かることと言えば、ここはどこまでも安全な場所で、ただひたすらに幸せであるという事。ぬくもりの中でゆらゆら揺られている時間。肌に触れている感触も、何もかもが心地良い。

「千冬ぅ。おはよ」
 その時、音が耳の奥をくすぐったと思った。すぐに気づく。この音は、好きな声だと。再び、心地よさを感じる。まどろみの中、ふわふわとした甘い声が脳を優しく揺さぶった。まるで甘いココアの中に、マシュマロを入れたみたい。ちょっとした喜びが、体中を満たしていく感覚。

どうしてこんなに幸せだと思うのだろう。少しだけ、不思議な気持ちになってくる。

(朝の挨拶と、オレの、名前……)
 おはよう、と言われた、今度はそうやって事実を認識するかのように言葉を処理した。文字が脳内を駆け巡る。
 脳が動くに合わせて、ゆっくり瞼が開いた。それはまるで花が時期を迎え開くように自然と。

視界は、意外とクリアだ。

まず白い天井が見えて、そして。
「随分寝坊助じゃねえか」

彼が、目に映った。
 もう朝のはずなのに、まるで夜の闇を連れてきたかのような色が目の奥に広がった。その中に見える鳶色は透き通っているのに深い色をしていて、美しいなと思う。天井の白色と対比した時、なんて鮮やかで美しい色を持つ人なんだろうと、そう思ってしまうほど。

宝石の名前なんて知らないけれど、例えるとするならそんな品の良さ。

しばし神秘ささえ感じて見入っていると、その色の持ち主、今名前を呼んでくれた人物にもう一度名を呼ばれる。千冬、と。千冬に話しかけてきた人物は、もう一度先ほどと同じ朝を祝福する言葉を伝えてきたのだった。形の良い唇から紡がれる美しい言葉。もう一度見て、瞬きをパチリ、パチリと二回。

次の瞬間千冬の口から言葉がころんと溢れてくる。疑問は行動に現れて、身体が勝手に動く。もっと彼を見たいと思ったからだろうか。上半身はその場に起き上がろうとした。しかしどうにも身体は怠けている。
「……場地、さん? どうして……」
「ハハ、まだ寝ぼけてるん? こんなに朝、弱かったっけ」
 くすくす、という表現は少しだけ似つかわしくない。どちらかといえば、ハハっと豪快さを兼ね揃えているような、そんなニュアンスが彼には似合う。でも決して乾いてるわけでもなくて、もっとしっとりと、聞いて耳によく馴染む、暖かさが含まれているような感じ。

そうやって彼、場地圭介は千冬に笑いかける。

場地はそのまま一歩二本と千冬のいるベッドまで近寄ってきて、ベッドサイドにわざわざ座ってくれた。上半身を未だベッドの上に横たえたままの千冬の方へ向いて。
「オレのほうが、起きれねえと思ってたのになァ」
 口の中、まるで遊ぶように、そう、まるで飴を舐めているかのように言葉を転がすと、座ったそのままの体勢を今度はゆっくり千冬の方へ傾けてきた。スローモーションってこんな感じなのかなと、心の奥底が冷静に分析をし始めくるらいに、ゆっくりと黒が近づいてくるのを感じる。そして近づいてきたそのままに、その主、場地の両手が千冬の頬を包む。誰よりも漢らしい角ばった指、それでいてしなやかに長い指は折り畳まれている時に、握り拳となった時に本領を発揮するのだ。その強さは、喧嘩の時に頼りになることを、誰よりも知っていた。

かつて千冬はこの手が、大好きだった。

(かつて?)

 今何と思ったのだろうか、そうやってまた一つ不思議になる。彼に言われた通り、まだ寝ぼけているのだろうか。しかし暖かい手が今は柔らかく千冬を包んでいて、これにずっと浸っていたいという気持ちが心をひたひたと満たしていったから、ふわふわした思考はどうでも良くなった。

そして。
「……おはよう、千冬」
 唇に、触れるだけのキスをされたのだとわかったのは、三度目の祝福である「おはようちふゆ」という七文字の言葉を脳内で処理したその後のこと。
 千冬が脳内で起こった出来事を処理する頃には、仕掛けた場地の方はすっかりベッドサイドから立ち上がっていて、利き手を掛けベッドルームの扉を開けるところだった。

手の温もりが去ってしまったことが、淋しい。ほんの一瞬の考え事がその感情を邪魔していたことさえ悔しい。
 ばさり、掛布団が派手な音を立てる。千冬が立てた音だ。今度こそ勢いよく身を起こした千冬は、しかしそのまま茫然と場地を見つめた。室内に響き渡るくらいに大きな音を立てたというのに、見つめた先にいる場地はまるでそんな騒音は聞こえなかったかのように、とても落ち着いているようだった。彼の落ち着きが、千冬の行動までをコントロールしたかのような、そんな感覚。

その身体が、部屋と廊下の境をまたぐその瞬間、千冬の方へ振り返った。
「場地さん。懐かしいワ、その呼び方。一体いつの夢見てたん?」
 心地良い耳障りの声が、今はさらに凪いでいるように聞こえた。

ほんの一瞬、全ての音が消えたように感じた。
 次の瞬間には、朝飯作ったわ、と愉快な声に代わって、再び音が千冬の耳に情報として入ってくる。さっきひとときの声が、それこそ夢だったかのように、今度は明るく千冬を催促する。

ああ、時計の秒針の音さえはっきり聞こえてくる。
「は、ハイ、すぐ行きます」
 そうなったら、千冬には返事をする他なかった。
 パタンとゆっくり閉じられた扉の向こうの彼にも、今の言葉はきちんと聞こえていたのだろうか。それは、場地にしかわからないことだろう。
 一人きりになった部屋で千冬はひとつ、息を吐いた。
 そう、なぜか知らないうちに息が張りつめていたのだ。心地良さから引き揚げられた時からずっと、何か緊張のようなものが身体に纏わりついていた。

その得体の知れなさから逃れたくて、今しがた起こったことに思考を切り替える。
 さっき、この唇に彼が触れた、そのことを思い出す。同時にあの熱を思い出したくて、左手人差し指で自身の唇をなぞった。一瞬、触れただけのキス。それは疑いようのないおはようのキスだった。
 口付けなんてもう慣れている話だ。少年が経験するファーストキスなんて遠い昔の話だった記憶がある。それだというのになぜこんなにも心かき乱されているのだろうか。千冬は自分自身に問いかけたけれど、答えが返ってくることはない。

そんな脳内で、思考は別のことに切り替わっていった。
(昨夜は、そう)
 帰りが遅かったのだと思い出す。思い出したんじゃない。思い出すことが、できた。

そうだ、と脳内から記憶を引っ張り出す。彼の容態が思わしくなくて、何日も病院に缶詰め状態だったのだと。不安定な状態にあったその相手をどうしても放っておけなくて、看護師たちが何度も一時帰宅を促してくれたのだけれど、結局家に帰ることなんてできなくて、病院に一番近い公園で夜を過ごしたはずだ。

(なんでオレ、帰ってきたんだろう)

 どうして自分は今家にいるのだろうか。ふとそんな疑問が頭に過った。ここ数日、千冬が帰宅を選択したことなんてないはずだと、千冬の記憶は訴えている。

「いや待って、何の記憶だよ」

思わず口から独り言が滑り落ちた。なぜ、外で一夜を過ごしたなんて記憶が出てくるのだろう。現に千冬は今、こうして一番暖かい場所にいるではないか。

けれど、そんな矛盾は一瞬にして千冬の中から消えていた。

今一番疑いないのは、自分の記憶であると、なぜか脳はそう結論付けたのだ。
(ああ、そうだ)
 心の水辺が、震えた。
 残念ながら、彼は昨日の晩を越えることができなかったのだと、そのことに行き着いてしまった。とうとう、その目を開けることが無くなってしまって。呼吸が止まってしまって。心音が、聞こえなくなってしまって、守れなかった。
 はじめから、あまり回復する見込みはなかった彼だった。そのことは、あの日腕に彼を抱えていた千冬が誰よりも知っていた。それでも、心が受け入れるかと言われれば反れば難しい話だった。

どうか一日でもいいから長く生きて欲しくて、祈ったことも信じたこともなかった神様にこの時だけはどうかと願ったのに。それでも現実は牙を向いたのだ。とうとう、彼は還らぬ人となってしまった事を思い出す。……思い出してしまった。
「それで、オレは家に帰ってきた……?」

自分の口から思考していたことが零れ落ちたことに、千冬は気づかなかった。
「最後のお別れ、しないといけないからって、お友達のためにも一旦お家に帰りなさいって、そう言われてたんだっけ」

そうだ、だから帰ってくることになったのだ、と結論づける。
「……病院に、行かなきゃ」
 ここまで回想をして、はっと千冬は思い出す。何をのんびり眠っていたのだろうか。感じたのは焦りだった。今すぐに行かなければ。彼の形が、まだ残っているうちに、と。

 すぐにベッドから身体を降ろした。左足から順番に、寝室の床を踏んだ。立ち上がるそのままの勢いでクローゼットに向かって、着替えるために服を取り出す。基本的に気に入った服しか着ないから、朝何を着るかという事で悩むことも少ない。

彼はきっと、違うのだろうけれど。
(……オレは今、誰を想像したんだっけ)
 一瞬、ほんの0.5秒にも満たない短い時間、何かが千冬の脳を過った。けれどその答えは結局掴めないままだ。それは脳内からまるでさらさらとした砂を手で掬おうとして零れていく時のような感覚だった。

 でも、思いつかないという事はそこまで重要な出来事ではないはずなのだ。そう納得する。ならば今すべきことの方を考えよう。再び思考を切り替えてものの一分も経たないうちに千冬は着替えを終えて、今度は飛び出すままに寝室の扉を閉めた。焦りが行動に反映されてしまったのか少しだけ大きな音が響いてしまったけれど、しっかり閉まった良い証拠だろうと前向きに考える。こういう考え方の切り替えは、得意なのだ、そのまま振り返ることなく廊下を進んで、向かう先は玄関だった。時間なんて何も確認していないけれど、今すぐここを出ないときっと遅れてしまう。それはいけないと考える。いくら昨晩のでき事がショックだったからと言って、今日を怠惰に過ごして良い理由なんてないのだから。

服を着替えた時一緒に持ってきた携帯を、強く握りしめる。次にバイクの鍵があれば問題ないだろう。その鍵はいつも玄関に置いてある。

 大股で歩けば玄関まで十歩もいらない。

そうしてもう玄関に付く、その瞬間に、千冬の耳へ愉快そうな声が響いてきた。それは、先程千冬をまどろみから救い上げたのと同じ、大好きな音。
「千冬ぅ、寝ぼけて外にでも出るつもりかァ?」
「場地さん、すんません。オレもう行かないと」

思ったよりも尖った声が自身の声帯から飛び出る。

その時、はた、と思う。

誰のために? 何のために? 胸の奥に疑問が広がる。それはインクが床に落ちて、じわじわ広がっていくような、そんな感覚だった。

背を、冷たいものが走った気がした。
「どーしたん? 今日は休みが重なったから、借りてきた映画見ようって話だったじゃん」
 どこに行くつもりなン? 場地に問いかけられて、千冬は今まさに靴を履こうとしていたその手を一旦止めることにした。……正確には、自然と手が止まっていたのだった。奥まで爪先を入れようとして、中途半端なまま。このままだと、踵が傷んでしまうなと、どこか頭の片隅が勝手に考えた。
 そのままの流れで声のした方、場地の立っているところへ視線を向ける。

今すぐ向けなければいけないと思った。
 そうしてぱちりと、視線が合った。いつも上に見える彼の瞳が、今はやけに高い位置にあるなと思った。

また、場地が話しかけてくる。
「朝飯、食おうぜ」
 彼の手が、千冬を誘う。ひらひら右手が二度動くのを文字通りに眺めていた。
 すると、そんな千冬の無反応さがつまらないと感じたのだろう。場地は立っていたところから一歩、二歩、三歩。千冬に近寄ってきて、そのままぐっと腕を引くのだった。
「あの、場地さん、その」
「いーから立てや。せっかく温めなおしたってのにオマエってヤツはなんで飛び出ようとすンの」
「だから、オレ、今日朝飯いらないって……」
「散々オレに朝抜くなって言っといて、ツゴーよさすぎ」
 再度、ぐいっと引かれて千冬は自分のしようとしていたことを諦めるしかなかった。その力が強かったという事もあるけれど、何だか自然と、従わなければならない気がしたのだ。

……そんなことは、当然だ。千冬にとって、彼は今でも絶対。自分よりも、優先すべきなのだから。

引っ張られる力でなんだか体まで浮いてしまいそうなそんな予感がして。千冬は慌てて場地にお願いをする。もう抵抗はしませんという意思表示。
「わ、わかりました、部屋戻りますから、一旦離してくれませんか、靴、脱ぎます」
「やぁっと言うこと聞くか。へいへい」
 じゃー、オレ先行くわ、オレが戻るからって、外に出たりすんじゃねえぞ、凄みを効かせるようにちょっと前傾姿勢になりながら、場地は千冬にそう念を押してきた。言われたところで、千冬にもう外へ行こうと考える気力は無かったし、場地にだってきっとそれは分かっていたのだろう。だから簡単に手を離してくれたのだと、都合よく解釈した。

中途半端に靴の中へ突っ込んでいた足をそっと抜いて、その靴を玄関へ丁寧に揃えることにする。普段なら絶対にやらないこと。靴は脱ぎ散らかして、おしゃれ好きの彼からは散々怒られてきた。靴の爪先は扉の外の方を向いているのに。本当はそれに合わせて千冬自身だって外へ向かう予定だったのに。結局自身は一歩も外に出ることなく、靴の先とは百八十度逆を向いて。その足はすでに場地が向かっていったリビングの方へ、歩き始めていたのだった。
(今日は、休日……)
 場地に言われたことを脳内で思い返す。

休みが重なったから、映画を見るのだと。昨日そう約束した。 
 そう、思い出した。昨日は常より少しだけ遅い時間に帰宅をしたのだった。本当はもっと早く帰れる予定だったのだけれど、季節柄新しい家族のお迎えが多い時期だから、ほんの少しだけ期待していた早めに帰宅するという願いは全く叶わずにしっかり時間外対応をしてから帰ってきたのだ。家の明かりが見えた瞬間、申し訳ないと思ったのにどうして今まで忘れていたのだろうか。
(場地さん休みで、帰ったら飯作ってくれてるっていうから楽しみにしてたのに)

恋人である場地が食事を振舞ってくれるというから早めに帰れることを期待していたのだ。いつもは、場地に家事をさせるなんてとんでもない! という考えな千冬がお節介を焼くことの方がよっぽど多いから。けれど、結局戻ったのは予定よりも遅い時間。申し訳ないと告げた千冬に、問題ないって、仕事お疲れさんと優しい言葉を与えてくれた。
(それを、なんでオレは忘れていたんだろう)
 そうだった、なぜ忘れていたのだろうか。それだけ疲れてしまっていたのだろうか。そんなの恥ずかしいなと思う。社会人となって数年経つのに、翌朝記憶がないなんて。
「千冬、ボーッと突っ立ってどーしたよ。まだ寝てんの?」

リビングの扉を開けたきりだったから、場地が訝し気な表情をしている。ハッとして、扉を閉めた。
「いや、すんません。もう起きてます。……味噌汁、美味そうですね」
「この前せっかくトーストにバターたっぷり塗ってやったのに、ついでに味噌汁が飲みたくなった~、って言ったの千冬ジャン?」
「え……! すんません、そんな意図はなかったっす」
「でも朝は和食派、ダロ」
「その通りっスね」

本当は四人用の食卓だけれど、二人で広々使うことにしている。その定位置に千冬は座った。先に食事が置いてあって、千冬のことを待っていてくれた。
 湯気の立つ白米はつやつやしていた。どうやら梅干しか海苔で頂けばいいらしい。小皿に二つが分けて置いてあった。それを口にする前に、千冬は御御御付に手を伸ばす。母親と二人で暮らしていた時から朝はご飯と味噌汁が多くて、すっかり習慣になっているのだ。豆腐と厚揚げというシンプルな具材。汁を啜ると出汁の絶妙な味がしてとても美味しかった。
「……どう?」
「最高っス」
「まーな」
「味噌、新しく買ったやつスか。なんかいつもと違う気がする」
「いや、いつもと同じ。気のせいじゃね? 昨日の夕飯分しか買ってない」
「不思議っスね、同じ調味料を使ってもこんな風に味が変わるんだ」
 素直に感心して、感想を口にする。意外にも料理だってできる彼が千冬に食事を振舞ってくれたことは、昨日や今日に限った話ではないのだけれど、シンプルな料理だからこそ分かった、人によって変わる味に改めての感動をしたのだった。……最も、これだけの風味なら、シンプルに見せかけて出汁を入れたとか、そんな工夫をしてくれたのかもしれないけど。
 一人感心を続ける千冬を目の前にして、場地は今日見たい映画の話始めた。今の時代、サブスクリプション等で契約していれば映画など見放題ではあるのだけれど、千冬のリクエストによって今回はわざわざ複数枚をレンタルしてきたのだという。タイトルと口コミ等で選んだ三作ほど。そのレンタルビデオ店のロゴを見て、ひとりの友人の顔が思い浮かんだ。場地の後輩に当たる自身の相棒のこと。きっと場地は、先輩として彼のことを気にかけてくれているのだろう。その事実がなんだかくすぐったくて、嬉しい。

何から見たい? 話を振られる。
「オレ、順番は特に。圭介さんはどうですか?」
「そーだな、袋の上から順番にすっか」
「それもありですね」
 今日一日でどこまで見れるのかはわからないけれど、最終的に全てを見るなら、同じことだと思ったのだろう。ある意味合理的な考え方だ。
 そこで、ふと関係のない疑問が浮かび上がった。

もう一度、食卓を見る。千冬の前には、御御御付と白いご飯。合わせに、梅干しと海苔まで。

対して場地の前には、何もない。
「そういえば圭介さんは、もう食べたんです?」
「え?」
「オレだけ頂いているから」
「だって、いらねえもん」
「……それは、先に食べていたという事ですか」

オレがいつまでも起きないから、すいません。そう口にした。
「違ぇワ」
「……え?」
 場地の声が、ふいに固くなった気がした。千冬は内心少しだけ驚いて、場地を見つめる。

この口調の彼と対峙した時、ふと思い出す場面がある。信じると誓い続ける時間の苦しさを味わった、とある秋半ばのことを。すると、彼もこちらを見ていたらしい。ぱちりと、目が合った。

そのまま千冬の目は、場地の口が動く様子を見つめ続ける。
「オレには、必要ねえだろ」
「それは一体、どういう……」
 何故だろう、心臓が痛いと思った。

急に、心拍数が上がったのだと認識をする。これはなんだろう。すぐに分かった。これは緊張だ。

背筋を走る謎の緊張感が、そのまま空気を伝わって、部屋全体に広がっていくように感じた。
「なぁ千冬」
 昨日は、どうして遅かったんだっけ? 場地の声が脳内に響いて、ぐわんぐわんと反響していく。問いかけられたことに応える間もなく千冬の意識はそのままブラックアウトした。



 規則正しい音が、鳴っている。
 ゆっくり、ぴ、ぴ、と、継続的に。
「今は、一体……」
 自分の口から滑り出た声に驚いてしまって、千冬の意識は覚醒した。次の瞬間、今の今まで眠ってしまっていたことに気が付いた。

ばっと頭を動かしたおかげで、耳鳴りがする。
「オレ、寝ちまったのか……」
 病院から帰ることのない日々が数日間続いていた。いや、時間が来れば追い出される立場だ。病院にずっといられるわけではない。それでも離れてしまうことが怖くて、家に帰ることができなかった。もし少しでも遠いところにいる間に、彼の身に何らかの悪いことが起きたら。そう思ってしまったらあまりの恐怖に学校だって行けなくて。自分が不良でよかったと、つくづく思った。この際、憧れの彼と同じ留年という道を辿ったって構わないから、片時も離れたくないと思っていたのだ。

季節はもう間も無く、冬に入る時期。冬に産まれたからだろうか。少しくらいは寒くても耐えられるけれど、起こった出来事に心も身体も弱まってしまっていたのだって事実。ここに来て、その限界が来てしまったらしい。病院にいられる時間帯だったのも理由の一つだろう。知らないうちに、眠ってしまっていたのだ。
 そう認識した瞬間、千冬の脳内にアラートが鳴り響いたような、そんな気がした。
「場地さん!」
 思わず、叫ぶような声が出る。

今日まで千冬は、自身が世界で一番敬愛して止まない、自分よりもっと大切なその人、場地の命の灯火が消えないようにと祈ってきた。慌てて覗き見た彼は、千冬の目の前にあるベッドの上で静かに眠っていた。一瞬にして、脱力する。

親友であった男に刺され、その後自らの腹を刺して。一度は本気で終わってしまったかと思ったのだけれど、彼はまだこうしてここにいてくれている。

集中治療室に収容されている必要がなくなって、家族以外の面会ができるようになった。だからずっと離れずここにいるのだった。

それでも、彼の予断は許さない。

静かに眠る場地へ恐る恐る触れた。嫌でも伝わってきてしまう熱に、思わず手を引く。嫌な思い出が、フラッシュバックしてしまった。数日前、深い眠りの底にいるはずの彼に繋がっている機械が、けたたましい音を響かせたときのことを。大人しくしているように見えて突然始まる発作のような数値の変化を見ていると、千冬の中にも焦りが生まれてきてしまうのは仕方なかった。だって、千冬はその数値が何を意味して彼にどんな影響を与えるのか、わからないのだから。
 今はどうやらその時と違って機械も静かにピッピっと規則的に動いているだけのようだ。どうやら、落ち着いているらしい。でも、千冬にわかるのなんてそれくらいだ。

その事が、こんなにも恐ろしいだなんて。
 千冬が大声を出したことなんて全く気付かないように、場地はただただ静かに眠っていた。
 再び静かになった個室には、同じように場地に繋がっている機械が一定間隔で鳴る音が飽和し続けている。
(嫌な夢を、見た)
 場地を見つめながら思い出すにはあまりにも不謹慎すぎる内容だった。大切な人を喪った翌朝。恋人となっている、その人。大切な人との最後の時間ではなく、恋人と過ごす朝を選んだ自分……。

全てがぐちゃぐちゃなのに、やけにリアルだった。食べた食事の味まで口の中に残っているかのような感覚。夢で良かったと、心底思ってしまう。
(あの夢の状況ではまるで、場地さんが)
 その先は正直考えたくなかった。もし今、思考を再開してこの続きを導き出してしまったら、何だかそれを現実にしてしまうような、そんな気がしてしまったのだ。

千冬の背に冷たいものが流れた。それは、絶対にあってはならない未来の話。
(ああ、どうか)
 目を開けて欲しい。

今しがたの考えは全くありえない話だと、場地自身に笑い飛ばしてほしかった。千冬オレに対してそんなこと考えたン?  フキンシンってヤツじゃね? いっそこんな風に、笑い飛ばすかのように言ってくれたらどれほど救われるだろうか。軽口が叩けるほど、千冬に向けて呆れたことが言えるほど、彼が元気であることを今すぐに証明してほしかった。
 ――千冬はもう気づいている。

あれは、千冬自身の願望だ。いつ彼が儚いことになってしまうだろうと思い続ける生活を辞めたくて、何気ない朝を彼と迎えたくて。そして何よりも共に過ごす時間が欲しいと思ってしまっている。

全部、もうわかっていた。
「こんなこと知ったら、場地さん、なんて思いますか。オレ、重いっスか」
 思わず自嘲してしまう。

それでも、今この時も眠り続けている場地に、どんな形でもいいから目覚めてほしかった。
「おはようって、言わせて欲しいんです」
 おはよ、千冬と、夢の中の彼は言った。その言葉を、千冬が伝えたいと思ったのだった。目覚めの挨拶を、祝福の言葉を彼に届けてあげたかった。
「……おはよう」
 もう一度、口に出す。こんなことしたって、千冬の独りよがりになるだけだとわかっていても、どうしても口にしたかった。
「場地さん、おはよう」
 ぴ、ぴ、と規則的になる音に重ねるように、言葉を紡いだ。
 ……場地の指先が、ほんの一瞬だけ動いたのを、千冬はまだ知らない。

 なあんて話を恋人である千冬から聞いたのはいつのことだったやら。

 いつかのピロートークだったことは記憶しているけれど、重ねた夜があまりにも多すぎてそれが一体いつの話であったのかはっきり覚えていなかった。

 かつて、場地が大怪我をして意識不明にあった時。その枕もとで夢として体験した不思議な話を、まさかそれから数年後に本当の意味で枕を交わした後聞かされるなんて、それこそ夢にも思っていなかったというのが正直だったりする。

 そして何よりも、なぜ今になってこんなことを思い出したというのだろうか。

「夢、ねェ」

「場地さん?」

 どうやら思考の底に沈んでいたらしい。燻らせていた煙草の煙と共に思わず口から滑り出た言葉を拾われてしまったらしく、不思議そうな顔をされた。声がした方に目を向けると、黒髪に左耳のフープピアスが目に入って、うっかりしていた、と場地は内心思う。

彼が部屋に入ってきたことすら気づいていなかったとは。油断していた。

 対して彼は特に気にした様子を見せずに、本題へ切り込んでいく。場地の鋭い視線に射抜かれることなんて、きっと慣れてしまった話なのだろう。

「場地さん、今日は十八時からA社の社長と取引ですよ」

「あ? それこの前オレ行かなくていいってことになったやつじゃねえの?」

「それはキャバ売り上げ回収のほうですね。先週下にお願いをして、取ってきたと報告上がってます」

「そ。終わってんならいーワ。で、ナニ、今日のヤツオレ行かないといけないワケ?」

 どうやら面倒事をやらされるらしいと知って、場地の目が座る。

「場地さん出ねえと回収取れませんって。……あの社長、経営傾いたって言ってどれだけ貸してるって思ってるんですかね?」

「知らねえよ」

「そろそろあなたに出てもらわないと無理ですって」

「ンでオレがわざわざ行かねえとなんねえんだよ。今回も下にやらせりゃいーじゃん」

「……そう言われましても。……いいんですか? オレが行っていいなら、そうしますけど……」

 了承を貰えない。つまり今日の場地は、いつにも増して不機嫌らしいと悟って困り果てたのだろう。どうしたものかと、控えめにされた提案。傍から聞けば、とても合理的に聞こえる。

 上司がやりたがらないなら、直属がやると。人によっては、なんてできた部下だと褒めるところに違いない。

しかし、今回の提案はそんなできた話ではないことを場地自身が一番よく知っている。

残念ながら、これは提案などではなく、一種の脅しなのだから。

「テメエ、いつからオレにそんな口利けるようになったんだ? アァ⁉」

 残念ながらかろうじて保っていた最後の冷静さは消え去った。苛立ちに任せて座っていた革張りのソファをドン! と叩くと、その野蛮な音が室内に広がる。今の今まで冷静に場地に対応していた彼も、流石に肩を揺らした。あからさまな怒りに触れた反応としては当然のことだろう。

しかしこれに怯えて引くわけにはいかないと思ったのだろう。彼がその場から動くことはなかった。だって、彼を現場に行かせるわけにはいかないと決めているのは、他でもない場地自身なのだから。それをわかっているからこそ、場地がいかないなら自身が赴くと言って、結局のところそんなことはできないことを自覚させてきたのだった。勉学が得意でなかった場地でも、この取引の意図は良く分かる。思わず感情に任せた行動で、その苛立ちを伝えたくなるのも、致し方ないと言えるだろう。

 それでも、もう一つ彼には知られている。今の場地はどんなに怒っていても、彼に手を出すことはできないのだと。この盾があることでかろうじて保たれているものがある。それが二人の間で定められた決まり事なのだから、立場を考えた時に下手に回るしかない向こうがこれを利用するしか手段がないのも事実だった。

「今回は、取らねえと、上がマジでやばいんですよ」

 敢えて抽象的に、それでも伝わるようにと紡がれた言葉を聞いて、場地は歯ぎしりをした。本来気分で手が出る場地を相手にここまで引かなかった理由。そんなの場地にだって、本当は分かっているのだ。

 誰もが、自身の身を置く環境に必ず満足をしているわけなどない。世の中の全員が最初に選んだ会社に満足をして一生を過ごすというのであれば、何故転職市場はこんなに潤っているのかと皮肉を言って聞かせたくなるのが現実というものだ。それでも、この組織にいる者たちは世の中の人間たちが本来権利として与えられている職を選ぶという選択肢を持つことなどできない。

 一生抜け出すことのできないこの現実。一生搾取され、支配され続けることに抗うことも許されない人生。逆らえば待つのは、その人生からの退場だ。

 「上」が全て起因している。

 場地には、大切な守りたいものがある。彼にもそれが分かっているから、最後の切り札を使って場地を動かすしかないのだった。

「……チッ」

 最後に大きく舌打ちをすると、低い声で考えとく、と返した。正直に言ってめんどくさい。本来そんなの下のやることで、自分が出るまでもないだろうと本気で思っているのだった。しかし場地は言われたことをやることになるだろう。だって、本当に下を動かせることであれば、場地に頼ったりせずとっくにそうなっているわけなのだから。

 最高幹部を動かすには、きちんとした理由がいる。そんなことは誰が言うまでもなく当然のことだ。

「……とりあえず、十七時になったらまた迎えに来ますので」

 言われたことに対して戻すのは生返事。まだ荒れ狂った感情は収まっていないのだから、それを考えれば随分と妥協したほうだ。ついでにもう一度分かりやすく舌打ちしてみせた。すると彼はビクッと少しだけ肩を震わせる。本日二度目だ。

ビビるくらいなら指示などするなと思う反面、致し方ないことだってもちろんわかっている。理解している。全ては八つ当たりでしかない。

気分を変えようと思って無駄にしてしまった煙草を灰皿に押し付け、もう一本と取り出す。

そうして再び火をつけようとした時、もう一つの声が聞こえてきたのだった。

「あれ」

「一虎君。お疲れさまです」

 どうやら、もう1人の協力者が顔を覗かせたらしい。この部屋へ自由に出入りできる人物なんて限られてるから、相手は自然と絞り込めるのだけれど。

「場地、今いいか」

「何、ここじゃダメなやつ?」

「ああ」

「わーった」

 彼は挨拶もそこそこに、何かを話したいらしく切り出そうとしてきた。しかしその性格にしてはどうにも歯切れが悪い。恐らく、この場に三人いるのが問題なのだろう。

「……二人はそのままでいいですよ。オレ外しますので」

「オマエも大変なー」

「いえ。大役を任されてることは、自覚してます。オレは、場地さん達が動きやすいようにするまでです」

「よろしくー。じゃ、場地。ここで」

 一虎がちらちら伺うようにしたからだろうか。立ったままでいた彼は察して、席を外すと伝えてきた。一虎がひらりと手を振ったのが見えた。それは彼にも当然見えていた事らしく、身体に合わせて誂えられているスーツの首元を、気を引き締めるようにキュッと締めるような仕草をした後で、二人に向かって深く頭を下げる。

そのままくるりと場地たちへ背を向け部屋を出て行った。

場地は去って行くその刈り上げた黒髪を左目だけでぼんやり眺めた。

数秒後には、扉の閉まる音。きっと、与えている部屋に戻ることだろう。

「うまく躾けてんじゃん」

 様子を見ていた一虎が、興味津々と言ったようにそう寄越してきた。その中に、若干茶化すかのようなニュアンスを感じて場地は眉を顰める。

「うるせえ」

「うわー、そういうこと言っちゃうんだ? 結構いい情報持ってきたんだけどなー」

「……で?」

 気心が知れた友人同志のやりとりは一瞬で、すぐに一虎の顔色が真面目なものに変化した。だって、場地が今この状況に焦り苛立っている理由は一虎にだって良く分かっているのだから。

 一虎は声をワントーン落とすと、こう言うのだった。

「千冬が掴みかけてた、稀咲の証拠。やっと見つけた」

東京卍會。かつての暴走族から、今ではすっかり汚い裏社会の一員だ。元からろくでもない人生を歩むことになると分かっていたけれど、実際にそうなってしまえば笑いしか出てこない。

興味のない金の話が毎日のように飛び交う、そんな世界に身を置くようになって何年が経過しただろうか。否、場地にとっては興味のない話でも、周りにとっては感心しかないのだから救いようがない。それでも場地にはどうしてもやり遂げないといけないことがあって、そのためにこの組織へ身を捧げると誓った。

そして、覚悟を決めた場地に昔と変わらず忠誠を誓う存在。

場地から見た彼は、後輩であり腹心であり、何よりも大切な恋人であった。

ある日、腕の中に抱いたその恋人、千冬から聞かされた不思議な夢の話。もしかしたら、それは千冬自身の願望だったのかもしれない。どう足掻いても抜け出すことのできない現実に身を置き続けたけれど、それでももしかしたら、どこかの世界では二人で迎える幸せな朝があったのかもしれないなんて。

彼をこの世界に引き摺り込んだことに後悔はない。かつて一人で全てを解決しようとして、それがとんでもない過ちであったと学んでいる。それでも、聞かされたその話は、思ったよりも場地の中に残っていたらしい。

……何よりも、そう信じたいのは場地自身なのかもしれないと、思ってしまうほどに。

「場地さん」

「あ?」

「その、今日はありがとうございました」

「今度からはやらねえからな。てめえらでどーにかしろや」

「……迷惑かけて、本当にすいません。場地さんに頼っちまって……千冬さんなら、きっとうまくやれたんでしょうね」

「……」

「……引き止めちまいましたね」

会いに行かれるんでしょう。そう言われて、場地は無言の肯定を返す。彼にもそれは伝わったらしい。深く頭を下げると、自室の方へ戻って行った。

一虎から情報を得た後、結局場地は望まれるがままに責務を果たしてきた。

東卍とその背後に何が付いているのかをちらつかせると、相手は恐れ戦いて命乞いをしてきたのだから呆れてしまう。こうなることが初めから分かっていて、なぜ組織と関わることにしてしまったのかと、思わず同情してしまった。それでも、この仕事で慈悲をかけるわけにはいかないことを誰よりも知っていた場地だから、全てを片付けてきたところだ。

そして現在。

重厚そうな扉に、手を掛けているところ。

「千冬」

 鍵を差し込み解錠する。内側に入り込むと、施錠することだって忘れない。

中へ向かって声を掛けたけれど、当然返事が戻ってくるわけなんてないことは、誰よりも良く知っている。

 場地はそのまま明かりをつけることなく、室内を進んで行く。

この部屋を知っているのはごく一部、本当に限られた人間だけだ。そこにもう何度も足を運んでいるから、こうして見えなくても、何歩で彼のもとに辿り着くか、身体の感覚でわかるのだった。

「千冬」

 もう一度、恋人の名を呼んだ。丁度、触れられる近さにいる。だから今度は彼の頬に触れてそっと撫でてやる。

愛しい恋人たる彼は今、深い深い眠りの底にいるのだ。

 ――松野千冬が撃たれた。

 ひと月ほど前の話。嫌になる程早く脈打つ心臓に対して、脳内はどこまでも冷静であったと思う。ああやはりそうなったかと考えていたのだから。

 腹心である彼が、場地にさえ何も報告をせずに何かを追っていることには薄々気づいていた。何故自分に何も言ってこないのかと、苛立つべきだったかもしれない。けれど場地は千冬を信じていたから、そんな感情は一度として湧かなかった。千冬には千冬の考えがあってあえて場地に報告を寄越さないのだと、そう理解していた。二人で過ごし、積み上げてきた信頼関係は伊達ではない。時が来れば、彼は絶対に教えてくれると、誰よりも場地が知っていたのだ。

 しかし時が来るその前に、千冬は何者かによってその命を消されかけたのだった。 

 今でもあの日のことを思い出すと身の内が震えてくるのは事実だ。腕の中に抱えた血濡れの恋人の体温が、徐々に失われていくその感覚。発狂しそうになる場地をかろうじて繋ぎとめたのは、かつて相手と逆の立場であった時のことを思い出すことができたからだ。あの時、彼が抱えたものは、こんな絶望だったのだと思うだけで、ここで自分自身が取り乱してはいけないと自覚することができた。何よりも、いつかこうなるだろうことさえ、場地にはなんとなく読めていたのだから。止めようと思えば、きっと止められただろう。これ以上おかしなことに深入りするなと、言ってやることなんていくらでもできただろう。しかしそれをしない選択を、した。

 それが凶だったのか吉だったのかは、正直今でも判断ができ兼ねているけれど。

 凶は、疑いなく彼が今置かれている状況の事。しかし、そのおかげで場地の目的は間もなく果たせそうになっている。

 吉としては、千冬が意識を失う寸前にあいつの証拠を掴みました、と、場地だけに聞こえる声で言ったことだった。

「千冬、隠し場所が分かりにくいんだよ」

 本当は思い出したくもない回想に浸りながら、場地は眠る彼へ声を掛ける。そう。千冬はずっと、この組織の汚点を探っていたのだ。場地が作ったチームを穢した張本人であり、場地がずっと、追放してやりたいと思っていたその人物を、その通りにするための証拠を。まさか、辿り着くとは思っていなかった。しかし、その最後の最後で計画は崩された。つまるところ、先手を打たれたのだ。

 これ以上、踏み込まれないように。幹部補佐という立場でも、容赦なく消されることが選択された。しかし、彼は一命を取り留めることができた。

 そうであればこれで終わる旧壱番隊ではない。せっかく副隊長が掴んだ一筋の光を、閉ざすわけにはいかないと、そう誓った時に今のこの状況が確立されたのだ。

 場地の右手は、未だに千冬の頬を撫で続けている。

「アイツ、めちゃくちゃオマエに似てきたぜ」

 殺したと思っていた相手が、数日後には何事もなく日常を過ごしていたら、宿敵はどうするだろうか。そんなの簡単な話だ。その情報回収に動くことだろう。その生死を、何が起こっているかを、調べに動くことだろう。場地はその間に千冬によって隠された確固たる証拠を探り当てると決めたのだ。

 そのために立てた、第二の松野千冬。変わらず壱番隊に忠誠を誓う一人に千冬を演じさせたのだ。信頼できる人間は限られているが、いない訳でもない。ろくでもない組織といいつつ過ごしていく中で相手の本質を見極めていった時間は、上下関係にだって成り立っている。かつての壱番隊時代から千冬を尊敬していたという人物に、その役を任せることにした。彼は言った。「オレは、肩並べてる二人が好きなんですよ」と。

尤も、抜擢した一番の理由としては、背格好が似ていたからでしかない。それが最も重要だった。「上」を欺くために、彼の目が覚めるまでの代役がどうしても必要だったのだ。

いつまでこの小芝居が続くかは、わからない。「千冬」がしばらく外での職務を行っていないことは、時期に気づかれてしまうだろう。そこまでが、勝負だった。

「一虎が、やっとオマエの隠した情報みつけたからな。オレ達の勝ちだ」

 そしてその勝負は、間もなく決着が付くことだろう。思わず喜びで口の端が上がった場地だが、すぐに表情は暗いものへと変わる。

「なあ、千冬」

 今日何回、その名を口にしただろう。

「オマエ、あの夢の中に、いるん?」

 馬鹿げた話だと思う。なぜそう考えてしまうのだろうか。これではまるで、彼が心の奥底で目覚めたくないとでも思っているかのような、そんな言い方だ。……否、場地がそうであってほしいと、願ってしまうのだ。千冬は二人で迎える幸せな朝を見ているから目を覚まさないのだ、と。

しかし、このまま彼の瞳が場地を映してくれないだなんて、そんなことは耐えられそうになかった。

もし今彼の目が覚めたとして。どこまでも身勝手であると、呆れられてしまうだろうか。

それでも、この地獄のような世界に戻ってきてほしいと、そう強く願ってしまう。

「千冬ぅ」

 おはよ。

 眠り続ける彼の唇に、自身のそれを重ねた。

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